2013年10月29日火曜日

金融ビックバンの果てに 石川銀行の場合

2012年05月05日


 今回は最悪のケースになった金融機関を取り上げる。
 裁判沙汰になっているので複雑なのだろうが、どうか冷静に考えて欲しい。



1943年6月 中世・近世から存在した資金融通を起源とする無尽会社を営んでいた北都無尽(株)と輪島無尽(株)の合併により、北陸無尽株式会社として設立。
1944年9月 北国無尽(株)を吸収合併。
1951年10月 相互銀行に転換、株式会社加州相互銀行に商号変更。
1980年 高木茂が社長に就任。
1989年2月 普通銀行に転換、株式会社石川銀行に商号変更。
2000年 二千人を超える個人、六百社近い中小企業が、増資株の引き受けを行う。その中で株式の買戻しを確約したことが民事訴訟につながる。
2001年 4月10日、親密な取引先だったNOVA(破産、現自分未来ホールディングス傘下)社長の猿橋望の協力を得てNOVAの関連会社が迂回融資による見せかけ増資に関与。
2001年12月28日 預金保険法第74条第5項の規定による申出がなされ、経営が破綻。
2002年3月29日 預金保険機構に対して資金援助申請。
2002年7月まで、金融整理管財人より、受け皿となる可能性のある先に幅広く接触。
2002年9月まで、引受に関心を示した先と守秘義務契約を締結、詳細資料を先方に提供。
2002年11月まで、候補先によるデューデリジェンスの実施。
2002年11月15日 北陸銀行、北國銀行、富山第一銀行、金沢信用金庫、能登信用金庫の3行2金庫を受け皿とすることを決定し、受け皿、日本承継銀行、石川銀行の3者間で「営業譲渡に関する基本合意書」を締結。
2002年3月01日、北陸銀行に営業譲渡する方向で最終調整を行っていることが明らかになるが、北陸銀行がメインバンクである佐藤工業の経営破綻で交渉は中断。
2003年3月5日 預金保険機構運営委員会において資産買取りを決定。
2002年3月28日、金融庁は日本承継銀行(ブリッジバンク)に営業を一時譲渡することを決定した。
2003年3月24日、日本承継銀行を経由して、北陸銀行に42店舗を営業譲渡し、残りを北國銀行・富山第一銀行・金沢信用金庫・能登信用金庫(現・のと共栄信用金庫)に分割営業譲渡。
2003年3月16日、元頭取の高木、元東京支店長ら旧経営陣が特別背任罪にて石川県警察に逮捕された(2012年現在係争中)。
2003年5月8日 解散。本店(これ以後は清算法人の事務局)を移転。
2004年4月8日 最後の頭取だった川口睦(執行猶予5年付懲役三年判決が確定)と旧株主との民事上の和解が成立。
2007年7月24日 石川銀行の高木元頭取に対し、検察側は「銀行を犠牲にして自己保身を図り、多大な損失を負わせた」として懲役五年を求刑。元支店長など2人は既に一審の執行猶予付き有罪判決が確定。もう一人の被告は一審の判決を不服として控訴、棄却され上告している。
2008年6月23日 預金保険機構が旧経営陣(高木茂、川口睦)に10億円の返還を求めた損害賠償請求事件事件の判決で金沢地裁は要求を全面的に認める判決を出す。
2009年5月22日 金沢地裁は石川銀行および当時の役員ら13人に対して株主に実質的な破綻(はたん)状態を隠し、不正に増資を勧誘したとして、約38億8千万円の損害賠償を命じる判決を出す。6月5日、銀行側が控訴。
2009年7月7日 名古屋高等裁判所は高木の控訴を棄却。不正融資の主犯と認定し懲役3年を言い渡した金沢地裁判決を支持。高木は上告を断念、収監。
2011年4月22日 名古屋高裁金沢支部は被告の控訴を棄却。被告は部分上告。

 今回、このコラムをかいていて頭の中がこれほど沸騰するほど腹が立ったことはない。
 あの哲学者の久野 収氏(1910年6月10日 - 1999年2月9日)がご健在なら「腹がたってボケられん」というのではないか。明らかに無責任であり無節操の一言に尽きる。無論、キリギリスのようにその日暮しばかりに終始した市民にも問題点はある。だが、経営者はその上に立つ以上厳しい倫理観が求められるのだ。
 今はその倫理観が欠落している。いや、欠落するよう求められているのだからどうにもならない。