2013年10月22日火曜日

モラルハザードを嘆く前に己のモラルを振り返れ

 今回のコラムはモラルについて考えたい。

2013年03月13日
女子高生にパンドラの箱を開かせたのは誰だ
現役女子高生がマッサージ、ハグ…日本橋に増殖中の「リフレ」って何だ?
配信元:産経新聞

2012/11/23 09:38更新
【マニアック街道】

 オタクの街、大阪・日本橋に「メイドリフレ」「JKリフレ」なる店が増えている。リフレとは簡易マッサージ、JKとは女子高生のこと。つまりメイドや女子高生の格好をした女の子がマッサージをしてくれる店で、コスプレかと思いきや、18歳以下のリアル(本物の)女子高生もいるから驚きだ。風俗店ではないが、「ハグ」や「ダッコ」といったオプションもあり、そのサービス内容や彼女たちの路上で客引きが今問題となっている。(高田清彦)
 「リフレどうですか~」「現役(の女子高生)です。私が担当しますので寄っていってくださ~い」
 メイド喫茶が集まる日本橋のオタロード(日本橋筋西通商店街)。最近目立つのは「リフレ」の店への勧誘だ。夕方ともなれば、メイド姿や学校帰りの女子高生風の女の子があちこちに立ち、通行人に声をかけ、チラシを配って客引きを始める。足を止めて話を聞き、そのまま店に連れていかれる客もいる。
 リフレとはリフレクソロジーの略で、本来は手や足のつぼのマッサージのことだが、ここでは簡単なマッサージといった意味で使われている。店では女の子が背中や腕、足などを押したり、もみほぐしてくれる。風俗のヘルスやファッションマッサージとは違うが、個室で2人きりで会話が楽しめ、マッサージの際の密着感が“売り”になっているようだ。
 時間・料金は30分4000円とか、60分6000円とか、店によってまちまちだが、“付加価値”がある分、通常のマッサージ店などより高め。数千円の追加料金を払うと、女の子が10秒程度抱きついてくれる「ハグ」、女の子を抱っこできる「ダッコ」、さらにビンタされたり、体を踏みつけてもらうSMっぽいオプションもあるという。
 中でも人気なのは「散歩」というオプション。店の子と1~2時間程度、日本橋を文字通り散歩する。途中で映画を見たり、喫茶店に寄ったりできるが、オプション代も含めてすべて客持ち。おねだりされて客が買い物させられるケースもあるという。
 そんなリフレ店の人気について、日本橋の情報通の飲食店関係者はこう説明する。「日本橋に来るのは、まともに女の子と付き合ったことのないオタクの子が多い。だから店で女の子と1対1で話せ、しかも体を触ってもらえるのがうれしいんでしょう。女の子もそんなオタクを相手に楽して稼げるので普通のアルバイト感覚で来る。それで店が流行る」
 しかし、トラブルも増えている。ボッタクリではないが、女の子にオプションを次々とねだられ、知らぬ間に高額料金になっていたり、気の弱いオタクが腕などをつかまれて店へ誘い込まれたり…。地元の古くからの商店主らで構成する日本橋筋商店街振興組合の事務所には、路上でのしつこい勧誘などに対する苦情がよく届くという。女の子に1日の客引きのノルマを与えている店もあり、それが強引な勧誘につながっているとの指摘もある。
 メイドリフレやJKリフレは6、7年前、東京・秋葉原などでメイド喫茶に代わる業態、またはそのバリエーションとして誕生し、増えていった。日本橋には2年前ごろから見かけるようになった。
 風俗店や飲食店ではないので基本的にそちら方面の届け出は必要ない。マッサージ店を開業する場合は資格が必要だが、メイドリフレのような店でのサービスは本来的なマッサージ行為といえるかどうかはあいまいで、従業員が資格なしで行っている。いわばグレーゾーンにあり、18歳以下の女子高生の従業員でも今のところ「喫茶店でのアルバイト」などと同じ“扱い”になっているようだ。
 電気街として栄え、オタクの街として人気の日本橋だが、ここ数年は悪質な店が目につくようになった。昨年10月には客を脅して服を無理やり買わせたとして恐喝の疑いで衣料品店が、今年9月には女子中学生を働かせたとして労働基準法違反(最低年齢)の疑いでメイドカフェが摘発されるなど、店がらみの事件も起きている。また地元関係者によると、メイドカフェでのボッタクリ被害の訴えなども増えているという。
 先述の飲食店関係者によると、あるメイドカフェでは客1人に数人の女の子がつき、「1杯いただいていい?」などと言って千円前後のソフトドリンクや軽食を次々と注文。女の子1人と5分話せば500円など変な“取り決め”もあり、30分もいれば3~5万円をボッタくられる仕組み。客が「金がない」と言えば、従業員に連れ添われて近くのコンビニに行き、カードで現金を引き出すよう命じられることもあるという。
 この関係者は実際、メイド数人に両脇をガードされ、コンビニで現金を引き出している客の姿を目撃。知り合いが客引きのメイドにひっかかり店に入ろうとしたところに偶然出くわし、入店を“阻止”して連れ戻したこともあったという。
 日本橋の“メイド産業”は最近、東京資本や大阪のキャバクラ・風俗営業系列の店が増えており、それが過激な客引きやサービスをあおっているともいわれる。
 そこで同振興組合をはじめ地元の商店会は9月、浪速署と協力し、「日本橋まちづくり安全協議会」を結成。パレードなどを通じ防犯啓発活動に取り組んでいる。日本橋筋西通商店会の幹部は「迷惑な営業の店も増え、街のイメージが悪くなり、まじめに商売をしている人たちは困っている。安全協議会の取り組みを通じきれいな街づくりを目指したい」と話す。
 キタやミナミとは違う独自の文化を発信してきたポンバシ。このまま“風俗化”が進むのか、それとも…。

 女子高生に風俗という最悪のパンドラの箱を開かせたのは誰か。
 道徳の大切さを大人たちは言う。私たちも認めよう、しかし、その道徳を破ってきたのは誰か。破ってきたのは上に立つ者達ではないか。竹下堕だの安倍晋太郎だの、いずれも汚れた金を受け取って居直ったり「記憶にない」とうそをつきまくったではないか。
 こういう姿を見て女子高生たちは「まじめにやっていたら損をする」という教訓を身に着けあざとい手法で金を稼ぐようになってしまったのかもしれない。「ばれなきゃいいや」の世界なのだ。AKBの某メンバーが恋愛をしていたことを理由に辞めさせられたが、全く考えられない非常識である。
 また、そもそもの問題は風俗に走らなければカネ稼ぎできないような経済の構造だ。そこに大きなメスを入れる必要がある。それと同時に風俗系業者には介護福祉への転身を促すような高額の税金を課すべきというのが私の持論である。
 さらに言うなら、風俗を使った方も風俗で稼いだ方も悪いのであり、双方を未成年であれ成人であれ厳罰に処すべきで、自首すれば不法利益の没収とボランティア従事10年でとどめる(買った方は書類送検にとどめたうえでボランティア従事15年に処する)のに対して摘発されたら不法利益の3倍を罰金で利息付にて徴収、裁判にかけられて裁かれたうえで介護福祉従事20年刑(売買ともに)に処すべきだ。
 まず、私たちが正すことから始めるべきなのだ。
 

posted by 小野 哲 at 00:00


 これが、現実なのだ。
 女子高生に出会い系の利用をやめるよう言っている大人が出会い系を使っていいのだろうか。
 私は社会人になってから初めて性教育と向き合った。隠すのではなくきちんと伝える事が大切だ。
 そのうえで道徳上のモラルで自らを律することが大切なのだ。

2012年12月20日
性教育を考えよ
 今回はあえて過激な発言とさせてもらう。
 だが、私は下半身の話を嫌悪していることをここに改めて明言する。

 What is a girl? What is a boy? - Stephanie Waxman http://goo.gl/UUy7w

 こんな本で顔をしかめているようでは、北欧の性教育の本格さに勝つことはできまい。私が下半身ビジネスを嫌悪していることはこれまでも何度も表明しているように皆さんご存知であろう。盗撮ビデオや催していることを堂々と撮影したりして金稼ぎするのは私にとっては我慢がならない。
 北欧三カ国、それもスウェーデンの場合は買春規定が改訂されて罰則が厳しくなっているほか女性差別につながるような言動や婦女暴行の基準も、日本より厳しい。実際、スウェーデンの性犯罪のデータは日本より何倍も多いのだ。
 逆に言うなら、「男女共同、仕切りなしのシャワールームを使う」「男女が同じサウナに入る。(これはお隣フィンランドも)」などと男女兼用の概念がある。男女平等の関係であるわけだ。その他にもコンドームが26歳までならただで貰えるなど避妊率が高いわけだ。こうした取り組みは1956年から行われており、北欧三カ国における性の早熟化はないという。
 性産業への冷たい目線があるからおおっぴらに電車の中で日刊ゲンダイや夕刊フジ、東京スポーツのような新聞を広げようとする客は少ないのである。こうした形まで社会をフラットにすることで、性犯罪を減らすことは可能になる。
 今すぐやれというのははっきり言って難しいというのは私も納得する。こればかりは「男女相まみえず」と言うような儒教文化の影響があるためだ。だが、やらないわけにもいかない。一定の時期を見計らった上で行うことが望ましいと思う。猥褻な発言を強く嫌う背景にはこうした書籍による自己教育というのが大きい。
 また、下手な性教育をやるよりは肝心のところも写った出産VTRを見るだけでも違う。それだけでも安易に下半身ビジネスに係ることはできなくなるはずだ。また下半身ビジネスはある意味最悪の形での貧困ビジネスである。例えばホストビジネスを見れば分かるように、ホストへ入れ込んだ結果莫大な借金を抱え込み風俗産業に飛び込んだ(というより強要させられた)ケースもあるようだ。
 放置していればいるほど笑いものにもならない深刻な状況だ。保守派も事態を深刻に受け止め、逃げない性教育への転換をお願いしたい。だが、最後に申し上げるが私はフリーセックスという言葉を強く嫌悪する。その行動へと踏み出すことは、相手に対して責任を担うことを意味するのだ。
    

posted by 小野 哲 at 05:00

2011年12月14日
記憶を消す子供たち
 今回はレノア・テア著の「記憶を消す子供たち」を取り上げたい。
 この中で7つの実話を元に小さい頃に受けた心の傷が大人になって突然思い出されると言うトラウマ経験が描かれているわけだ。しかも、実の父親からの性的搾取あり、殺人事件、近親者の逝去など、それらは多様多種である。
 決して侮ってはいけない。私自身も過去、ハラスメントの被害を受け未だに苦しんでいる。その影響は人付き合いしにくい性格に繋がっているのである。過去のコラムをここに掲載したい。

記憶と記録(小野哲)
テーマ:モラハラ
2009-11-25 09:04:21
 ハラスメントの負の影響は私自身の人格のゆがみと同時に、私の記憶を消していく。
 実は私事で恐縮なのだが、数十年前の隣人が結婚すると言うことで電話があった。だが、私の記憶は彼らについてすっきりなくなってしまった。この数年間様々な出来事があって私自身対応できる容量を上回ってしまった。なので、隣人の顔も名前も分からなくなってしまった。無理もない、外からの電話にも出ないなど、外との関係もハラスメントの後遺症で出来にくい状況だ。唯一出来るのは仕事だけで、仕事だけが私の心を癒やすようなものである。その心情を理解できるのは我が盟友だけでしかない。
 なのでハラスメントの傍観者としてしか今の私には彼らは見えていない。なので、「どうか幸せになってくれ、俺のことはそっと放っておいてくれ」としか言いようがない。ハラスメントの悪夢は最悪の場合記憶力を司る脳の一部が破壊される。私はその記憶力が完全に低下しており、昔の出来事は記憶というより記録でしか覚えていない。
 記憶と記録は韻を踏み一文字違うが、性質は全く違う。生きた思い出が記憶なら、記録は死んだ過去の情報でしかない。そこまで残酷な生き様を私は一人の中に封じ込めることにした。記憶には心が伴うが、記録には心は伴わない、あるのは死んだ過去の情報の集積体だ。私は過去得た情報を一気にDVDに焼き付け、元のデータの転売や譲渡などその処分を行っている。ハラスメント加害者にとって言えば、被害者の記憶なんて記憶ではなく、記録以下の記号にしかすぎない。だから、平然としてハラスメントへの罪悪感などない上、被害者にすべての責任を平然としてなすりつけ居直るのだ。これでは被害者にとっては痛烈な激痛になって襲いかかるに等しい。そして、傍観者連中はその痛みを理解するだけの力はない。
 今の私は願う。人の人生を記号としか見ないハラスメント加害者への厳罰を含めた取締及び被害者への救済法が即刻制定され、ハラスメントの被害者を一人でも減らされることを。被害者の苦しみに社会が応える事を私は望む。宝くじで一等のくじが手に入っても、私にはぽっかりと空いた心の穴は埋められない。ハラスメントの傷に苦しむのが私一人だけであってほしい。
 私は結婚すら出来ないのもある、なので結婚式には参加しないことを決めているし、あまり人の面会には応じないようにしている。そこまで自己規制するのかと思うかもしれないが、「あのパワハラすらなかったら今の俺は」という比較と劣等感に苦しむ私の心境を察してほしい。それほど、再起不能に等しい傷をパワハラが与えたのだと言うことを。
 因みに結婚について言わせてもらうと、覚悟でしかない。覚悟なくして結婚はできない。相手が場合によってはモンスターパートナーなら、もうそれは悲惨な結末を迎える。私はその種の話を聞いているほか、パワハラによる対人不信感の強さもあって結婚はしないのだが、結婚するという人にはそういうしかない。

 追記
 なお、沖縄県で起きた中学生「8人」による暴行虐殺容疑について、簡単に申し上げる。
 事件内容は警察だけの情報によると典型的なモラルハラスメントであり、報道によると被疑者は「生意気だから懲らしめてやった」「重大な結果になるとは思わなかった」と話しているという(ただし、どこまで正しいかは一方的な情報のため疑わしい)。このことについては被疑者へのコメントについては今は差し控えるが、そもそも大人社会の反映が子供の世界なのだ。「子は親を見て育つ」と言うではないか。沖縄県は自民党による自称知事の暴走悪政が10年以上も続き、本来の民衆の声は封殺されてきた。もはや救いようのないモラハラ自民党の国家の私物化が地方にはびこった結果、教育現場でも疲弊感が漂っているではないか。
 はっきり言おう、仲井真自称知事、あなたの罪は万死に値する。あなたは圧倒的多数の沖縄の民衆が米軍基地の縮小の希望を持っているのを承知で民意に逆らっているのだ。それで何が「国旗国歌」が大切か。民意を踏みにじり、箱ものの開発ばかり走って人への投資である教育を怠った結果のこの事件の、真の加害者として責任をとるべきだ(これは前任者の自称知事の稲嶺某にも言える)。
 教育は国家最大の投資事業である。将来を担う若者達を育成するという事は、国家の繁栄にも関わる(ただし、国立女性教育会館のような箱ものはもってのほかだが)。新自由主義者を仕分け人に起用している民主党はそのことをどこまで自覚しているのか、全く疑わしい(ただし、理念ばかりが突っ走る共産党にも問題はある)。もっと人への投資を充実すべきだろう。
 人への投資を充実した結果、アメリカには人材が集まるようになった(ただし、格差社会は見習ってはいけない)。人への投資こそ、今後日本はやるべきである。企業融資ばかりが投資ではないのだ。

記憶と記録 芸術の視点と心理学の観点を比較して(小野哲)
テーマ:ブログ
2010-03-19 08:01:19
 以前、記憶と記録というタイトルでコメントをさせていただいた。
 そこでこの前検索をさせていただいたが納得したコメントがあったので引用させていただきたい。


石井芳征(美術ライター)

「私の中にあるたくさんの記憶はどれだけ事実のまま保存されているんだろう?気持と感情で揺れてぶれてむらやひずみが出てくるような記憶しか持たない私は写真への憧憬を持ち、事実のままの記憶を持ち続けられる二郎は写真への興味などないってことなんだろうか?」 
舞城王太郎「駒月万紀子」



 人の記憶というものは、とても頼りなくあてにならないものだ。確固としたカタチを保ち続ける保証はどこにもない。状況や心の状態によって無意識に、都合よくねじ曲げられ、ゆがみ、変質していく。この不安定な記憶というものを何とか確実なものにしたいという欲求から、写真の客観性、変わらなさは望まれ、受け入れられてきた。でも欲張りなもので、人はその頼りなさ、不確実さをどこかで肯定し、愛してもいる。それが全く消えてしまうことを望んではいない。印画紙に焼き付いたものと心に焼き付いたもの、記録と記憶の違い。言い古されているかもしれないが、人は実感(リアリティー)をどうしても追い求めてしまう地球上で唯一の生き物だ。
 
 東亭順の絵画(?)もまた記憶というものの実感(リアリティー)を扱っている。?マークがつくのは、その特異な制作方法ゆえである。写真(印画紙あるいはデジタルプリント)をパネルやキャンバスに貼り、その上にアクリル絵具で着彩した後、メディウムを画面全体に塗り透明の膜を載せ、目の細かいヤスリで研磨する。平らになった面の上から再び着彩、メディウムを塗り、磨く。この工程を何度も繰り返し最終的にニスを塗りまた磨く。磨かれることで筆触は消えて、表面はまるで大理石のような光沢を持つ。描かれたものという印象は薄い。薄く薄く幾層にも重なった半透明の色の層は、その下の色、そのまた下の色を透かして、一つの風景を立体的に立ち上げる。何百分の一ミリとかの、視覚では認識不能な物質的な厚みによって生まれた遠近法とは異なる遠さは、その成り立ちを知らない観者の視覚に不思議な距離感をもたらす。
 
 「写真自体を信用してないっていうか。焼いたものは、自分の見ていたもの、記憶とズレてるんですよね。だから『記録』に自分の『記憶』を付け足すっていうか、こっちのほうがあってるだろみたいな。写真自体をいじることで正確な、っていったら変ですけど、自分の『記憶』に近いものを『記録』していく。写真のようにツルツルの表面に仕上げるのも、一点ものの写真みたいな感じにしたいってのがあるのかもしれない」。
 
 「一点ものの写真」。複製可能な写真という認識とは矛盾するこの言葉は、東亭の作品の本質を言い表している。東亭は記録としての風景を、その時自分の中に写った個人の記憶へ近づけていくために、修正を施す。記録は、色の層を重ねていくうちに目の前から消失し、記憶へと変容していく。「記憶の記録」、複製不可能な「一点ものの写真」のような絵はこうして生まれる。
 
 ロンドン滞在時に経験した、日本との気候の違い、湿度や刻々と変化していく雲の動きの早さ、大気が身体に伝える感覚の経験は、それまで人体をモチーフに、肌の持つ潤いや触感といった感覚的記憶を描いてきた東亭にとって、記憶というテーマをより意識的に考えさせるきっかけになった。水気を含んだ大気の重なり、移り変わってゆく風景、不確かな記憶のイメージは東亭の心を捉えた。
 
 「僕個人の真実というのは、社会的、客観的事実という視点から見れば、誤ったものかもしれない。でもそれが僕にとっての真実だから 」。
 東亭の最近の関心は自分にとってのリアリティー、記憶を再現することからさらに一歩いい進んで、記憶の変化自体や、そのようなプロセスを、見る者が作品から直接的に感じるような作品をつくることにあるようだ。風景画の天地を逆さにすることで意図的に記憶に反転・変化を加えたり、幽かな線描を施したトレーシングペーパーや薄い布を重ね窓に貼り、透過する光という環境の不確実性を条件に加えたりすることで、イメージの曖昧さをより強調し、記憶の不確かさを体験させる装置のような作品などをてがけている。
 
 頼りなくいい加減な記憶を肯定し愛するように囁きかける東亭の作品は、個人のリアリティーが世界の真実とも、ほんの少しだけど、どこかでつながっているかもという希望の刹那を垣間見せてくれるのである。
美術出版社『美術手帖』2004年9月号 P169 - 173 「アクリリックスワールド23」

http://www016.upp.so-net.ne.jp/azumatei_artist/bt_text.html より引用

 これは芸術面としての記憶と記録の概念の一つである。
 では、この前述べた心理学からの記憶と記録とどう違うのか。重なり合うところもあるのだが、心理学という科学的研究で裏付けされた概念では記憶は文字通り心で覚えるのに対して、記録はあくまでも死んだ情報にすぎない。記憶にはそれでも不思議なことに覚えていないけどやったという瞬間もある。
 ここまで言ってしまえば人の情を捨てきったと言われてもいいと私は思う。私がハラスメント(嫌がらせ)後遺症をある程度押さえられたのはこの概念である。完全なる克服は加害者への法的制裁がない限り無理だが20%押さえられるだけでもましだ。この日本はハラスメントへの罪悪意識が非常に薄い。性的不快感を押しつけるセクシャルハラスメント、私が受けた職場などの権力関係を悪用したパワハラ、マザーハラスメントやアカデミックハラスメント、スモークハラスメント、アルコールハラスメント、ブラットタイプハラスメント、そして恋愛や結婚にかんする概念を押しつけるラブハラスメントである。
 ラブハラスメントでは結婚できない男性の現状を考えてほしい。私はパワハラ後遺症で結婚できない現状だ(しかも加害者は不倫までしていて公私混同のツケを私に押しつけて逃げている)。そんな人にとってみれば、結婚なんて贅沢でしかない。時事通信の記事を今回引用させていただきたい。


「非正規」男性、結婚に困難=子どもの有無も「正規」と開き-厚労省3月17日16時27分配信 時事通信
 2008年までの6年間に結婚した独身男性の割合は、正規社員より非正規社員で低く、約1.8倍の差があることが17日、厚生労働省が公表した「21世紀成年者縦断調査」で分かった。
 子どもを持った割合も約2.6倍の開きがあり、雇用形態の違いが結婚や出産に与える影響の大きさが改めて浮き彫りとなった。
 同省は少子化対策の一環で、02年10月末時点で20~34歳だった男女を追跡調査しており、今回が7回目。
 02年の調査時に独身だった男性約4000人のうち、6年間で結婚したのは正規社員が32.2%だったのに対し、非正規17.2%。子どもが生まれたのはそれぞれ12.8%、4.8%だった。
 結婚の割合は収入に比例して高まる傾向があり、年収400万円台の男性は26%だが、100万円未満では8.9%にとどまっている。
 また、子どもを持つ意欲と出生の関連では、夫婦ともに望んでいた家庭の68.3%で子どもが誕生。両者とも「欲しくない」としたケースでは5.5%だった。
 子どもが生まれた割合は、夫だけが望んだ場合は24.1%。妻だけだと11.6%で、夫の意向に左右される傾向が見られた。 
最終更新:3月17日20時6分

 私自身、パワハラにより不当に正社員の地位を追い出された。
 加害者はノホホンとして罪悪感は皆無、となればこうした傾向にこそ厳罰を以て取り締まる必要がある。しかも、結果は残酷となれば被害者は踏んだり蹴ったりだ。加害者にはその数十倍の報いを時効なしで与えるべきだろう。
 結婚を迎える人たちに告ぐ。
 あなたがたはあくまでもごく一握りの幸せをつかんだ人たちである。世の中ではハラスメント後遺症に苦しみ、結婚すら困難な状況に追い込まれた人たちがいるのだ。そうした人たちの阿鼻叫喚を決して忘れないでほしい。そして、生まれ出る命をつまらぬ理由で奪わないでほしい。我々ハラスメント後遺症被害者をこれ以上生み出さないよう願いたい。

意識に刷り込まれた記憶を引き起こす難しさ(小野哲)
テーマ:ブログ
2010-06-18 11:42:50
 以前、藤枝俊一郎氏へのコメント回答で私は昔の歌で質問をさせていただいた。
 あのあと、ひょんな事からフリオ・イグレシアルというスペインの歌手が歌う「ビギン・ザ・ビギン」と分かった。YouTubeにもあるが、ここでは著作権の問題からアドレスは掲載しない。ちなみに長男のフリオ・イグレシアス・ジュニア、次男のエンリケ・イグレシアスも成功を収めた歌手だそうだ。
 最初、私はフランク・シナトラや日本人が歌っているのかと思った。だが、ラテンに近い音楽だったので、どうしても納得できず、70年代の洋楽を検索した。それでも納得できなかった時にたまたま口にしたビギン・ザ・ビギンの言葉からはっと思い出した。
 ついでに調べたら錦野旦や尾崎紀世彦も歌っていた。また、元々はジャズナンバーだったそうで、フランク・シナトラも歌っていたし、あのポール・モーリアも指揮をしていたのだ。記憶はあっても、それを引き出す力を失えば、記憶はないに等しい。意識に刷り込まれた記憶を思い出せなければ、と言い換えても同じだ。


 私にとっては記憶は心にとどめるものなのかもしれないと思う。
 しかし、そうだと思えるものがないのである。ハラスメントによってそれらは全てドス黒く染められてしまい、加害者は何の責任を取らない。それではいけないのである。草食系と日とくくりにされるつもりはない、私は合理主義者に過ぎないのである。

http://www.amazon.co.jp/%E8%A8%98%E6%86%B6%E3%82%92%E6%B6%88%E3%81%99%E5%AD%90%E4%BE%9B%E3%81%9F%E3%81%A1-%E3%83%AC%E3%83%8E%E3%82%A2-%E3%83%86%E3%82%A2/dp/4794206380

posted by 小野 哲 at 22:37


2011年12月30日
エンデの警鐘
 今回の書評はミヒャエル・エンデの思想を描いた「エンデの警鐘「地域通貨の希望と銀行の未来」」坂本龍一・河邑厚徳共著である。
 「エコロジーの破局か、エコノミーの破滅か―未来世代の希望につながる「第三の道」はあるか?ファンタジー作家M・エンデに導かれ、音楽家・坂本龍一とともに、「未来を奪う経済学」を撃ち、地域通貨の実践と銀行の胎動を紹介する」という帯にあるように地域経済の活性化による日本の再建をこの書は示している。
 以前私はこのように描いている。

ミヒャエル・エンデの経済論とホリエモン(小野哲)
Date: Tue, 02 Sep 2008 18:40:59 +0900

 今回コメントするのはミヒャエル・エンデ氏である。
 『モモ』という作品をみなさんはごそんじだろう。しかしエンデ氏の経済論は知るまい。私は筑紫哲也氏とエンデ氏の対談で初めて知った。彼は共産主義と資本主義は光と陰のような存在であると指摘しており、両者は切り離せないと指摘している。
 ライブドアのホリエモンこと堀江貴文を今回対峙するのはいわば金を得たために支配者と化し、金の奴隷であると証明した彼がやり直すのに参考になると考えたからだ。
 エンデ氏は地域経済と共存社会を訴えた。その典型的な形なのが地域貨幣であり地場で生産し地場で消費するコミュニティである。だが、現実は難しい。ごくわずかな地域でしか導入されていないのだ。また、生協があるじゃないかとみなさんは思うだろうが実際はイオンやセブンアンドアイなどの競合と食い合っているのだ。それでも、そうしていくしか地球の生き延びる道はない。
 エンデ氏の議論は今までの資本主義、共産主義の概念でとらえてはいけない。目に見えないモラルもこの議論には不可欠なのである。たとえば堀江はおそらく地方の医療を赤字だとして切り捨てるのだろう。だが、そうすることで地域の新生児出生率は低下し、さらには長寿率は低下する。そんなに金だけで見ていいのだろうか。それをストレートに問いかけたのがエンデ氏だったのだ。これは私が繰り返し厳しく批判してきたヒトラーこと小泉純一郎などの「構造改革論者」連中にも当てはまる。
 内橋克人さんという評論家も類似した問いかけを行い、日本社会の持つ共存共栄を取り戻すべきだと指摘している。その中で高杉良さんの小説に出てくる逃げない経営者が生まれる。いわば堀江とキヤノンの御手洗冨士夫は同じ世界観でしかないのだ。


http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%87%E3%81%AE%E8%AD%A6%E9%90%98%E3%80%8C%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E9%80%9A%E8%B2%A8%E3%81%AE%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%81%A8%E9%8A%80%E8%A1%8C%E3%81%AE%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E3%80%8D-%E5%9D%82%E6%9C%AC-%E9%BE%8D%E4%B8%80/dp/4140806672

posted by 小野 哲 at 00:44

2012年02月21日
投資家とは、投志家である
 もし、投資と投機が異なるものであるとするなら、成功した投機を投資と呼び、失敗した投資を投機と呼ぶ。 (森巣 博)

 今回、最初にこの言葉を冒頭に掲げる。
 最近まで日本は株取引・外貨取引ブームだった。だが、これらは全てが目先の利益によるものだった。要するにギャンブルである。そうした目先の利益に年金の資金運用は用いられているのが現実である。だが、これから取り上げる投資を私は本来あるべきものであると考える。

 平素は西宮冷蔵の再建活動に深いご理解とご尽力を賜り心より感謝申し上げる次第でございます。
お陰さまで皆様方おひとりおひとりの熱き思いをパワーの源とさせて頂き、志を同じくする同志、仲間と共に「最後には必ず正義は勝つ」を合言葉に食の安全の普及に尽力しております。
しかしながら、ここに至り財政面における不安を払拭することが叶わず、緊急を要する懸案として浮上してまいりました。
そこで誠に身勝手なるお願いとは重々承知いたしておりますが、下記の条件にて再建救済貸し付け基金を設立させて頂きたく存じます。
「トレーサビリティ」、「地産地消」、「有機農法」などご家庭に安全な食材を提供すべく信念を持って働く真っ当な生産者、企業人がいる一方で、「産地偽装」、「残留農薬」など依然食の安全を脅かすニュースを耳にすることも増えております。
霧の彼方で暗躍する巨悪と戦う為、何卒、諸事情ご賢察の上、ご協力賜りますようお願い申し上げます。



1. 利息………………無利息
2. 担保………………無担保
3. 返済方法…………2年間据え置き後、60回均等分割払い
4. 1口30万円……1口以上お願いいたします

ご協力頂ける方は必ず、下記にご連絡お願いします。
電話:0798-35-1234
FAX:0798-35-1237
会社所在地:〒662-0934 兵庫県西宮市西宮浜3-11-2
担当:水谷甲太郎

振込口座は下記の通りです。
三井住友銀行 西宮支店(370)普通口座
口座番号:8215780 口座名義:西宮冷蔵を再建する会 会計 山田廣士
ニシノミヤレイゾウヲサイケンスルカイ カイケイ ヤマダコウジ

※大変勝手で申し訳ありませんが、誤りを避ける為、これまでの郵便振替口座への振込はカンパ・通販代金受け取り様に限らせていただきます。

 http://nishirei.net/shien.html

 この西宮冷蔵は雪印食品の不正を告発した結果政府から不当な仕打ちを受け民事再生法を申請させられた。
 だが、市民が立ち上がり再建に必要な800万円を集めてきた。このことを私は投資とは言わない、投志という。志に出資することが本来あるべき投資の精神である。だから、目先の損得にはこだわらない。それができないのなら、もはや投機家というべき存在である。
 もし、あえて言うならば私は後者になるだろう。だが、私は自分を戒めておきたい。人は欲にたかればお粗末な存在になってしまうのである。
 新約聖書より、ある一節を引用する。
ヤコブの手紙 4章

1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。
2 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。
4 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。
5 それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。
6 しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」
7 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。
8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。
9 あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。
10 主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。
 11 兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。
12 律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。
 13 聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。
14 あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。
15 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」
16 ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。
17 こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。
聖書 新改訳 (日本聖書刊行会)

 この言葉のうち神をモラルに置き換えると、この言葉はより深く分かると思う。それを分からないと、魯迅の「諺」でいう、主人となってすべての他人を奴隷にする者は、主人を持てば己れが奴隷に甘んずることになってしまう。

posted by 小野 哲 at 22:43

 これらとは直接のコメントにはならないが、青い鳥さんはこのようなコメントを以前旧ブログにしてくれている。

この記事へのコメント
確かに秘め事、房事と古来、いわれている様に性的な諸事を明け透けに何の規制なく商業主義に便乗し、公序良俗に著しく反することは、わたしも反対ですし、受け取る側も様々な考えがあり、表現も都度、配慮しなければならないと思います。ただ、わたしは中国の北京市で足掛け5年間暮らした経験があるのですが、“性的表現等”に関して当局の監視が余りにも厳格に過ぎると思い、ある種の“怖さ”を感じたのも事実です。人間臭さ、猥雑な社会をわたしは好む人間です。以前、小野哲さんが、永井荷風についてお記しになられた様に記憶していますが、わたしは荷風の生きざまに共感を抱いています。荷風の墨東奇騨の様な風景を好みます。おおらかな風情…、いいですね…。
わたしの表現で小野哲さんに対しまして不快な思いをおかけしましたのであれば、わたくしの本意とするところでは決してございませんのでご理解願いたいのです。何ごとも程度問題で、線引きが難しいところでもありますが…。
あらためて、小野哲さんの、様々な貴重な示唆に対しまして敬意を表させて頂きます。

Posted by 青い鳥 at 2012年08月06日 05:21

コメント回答2012年8月6日
 青い鳥さんよりコメントが来ていますので回答させていただきます。

 国家が何でもかんでも管理するようでは完全なるディストピアそのものです。
 ただ性的なことを金儲けに使うことは決して良くはないんです。その一方でヌーディズム(19世紀の欧米諸国で反文明の動きとして出てきた)については自主的な活動のため規制ができないわけですよ。あなたが自由主義の大切さを十分把握されていることは私自身承知ですよ。
 人間臭さや煩雑な社会がどこまで認められるか(日本国憲法における『公共の福祉』にも関わりますが)は個々のガイドラインになりますのでここでは一律にお話することはできかねますが社会がおおらかさをなくせば弾力性すらなくなるのも確かなことでしょう。
 T.M.Revolution(西川貴教)と島谷ひとみ、ミゲルによる「T.M.H.R.」が出した新曲「チカラにかえて」(エステー『消臭力』CMソング、ユニバーサルミュージック)とても、ミゲルの歌声に西川が興味を持ってツイッターに書き込んだのがきっかけです。コチコチなまでに硬直な社会ではこんなアイデアは出てこなかったのだと思います。
 ただ、これで私は「自由主義万歳、共産主義くたばれ」というわけではありません。いいところもあれば悪いところもあるわけでお互いにいいところを学び取り融合させる努力はあるべきでしょう。

2013年03月20日
罰当たり坊主が
 朝日新聞の報道によると、尾張徳川家ゆかりで、高野山真言宗の別格本山・八事山興正(やごとさんこうしょう)寺(名古屋市昭和区)がハローワークなどで集めた見習いに、「修行の一環」として1人で死者を弔わせていたという。
 「わからない作法は省略した」と話す見習いもおり、遺族は「だまされた」と憤るも、僧籍がないのに任せたことについて、寺は「修行の一環で問題ない」と反論している。だが高野山真言宗の僧侶になるには、総本山である金剛峯寺(こんごうぶじ・和歌山県高野町)に僧籍が登録されなければならない。興正寺ではそれまでは見習い。約3年間修行し、住職から適性を認められる必要がある。
 それなのに報道によると興正寺は、修行期間が2年未満の見習い3人に、1人だけで通夜をさせていた。朝日新聞が入手した内部資料によると、昨年1~9月、少なくとも計11回の通夜を任された。元見習いの男性(28)は朝日新聞の取材に、「興正寺から、見習いと言うなと釘を刺された。遺体の枕元でお経をあげる枕経(まくらぎょう)や通夜を1人で担当した」と打ち明ける。
 その原因は興正寺の関係者によると「相次ぐ解雇で人手不足となり、見習いに通夜を任せるようになった」と話している。

 その解雇も不可解な話だそうだ。
 それで訴訟が起きて寺の全面敗訴に終わったがかなり不可解な話ではないか。見習い二層式を任せること自体考えられないしプロとして情けないのではないか。
 まさしく罰当たり坊主というべき代物だ。

posted by 小野 哲 at 00:00

2012年10月15日
自由と責任論
 アメリカンコミックで有名なスパイダーマンで『大いなる力には、大いなる責任が伴う』という名セリフがある。
 今回の人生論はこの言葉を深く洞察し、考えてみたいと思う。ここでいう『力』とは自由を指すものだ。そう考えていただきたい。最初に、自由と責任についてそれぞれの意味をWikipedia日本語版より引用する。

自由(じゆう、英: freedom, liberty)とは、他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう。哲学用語。ここでは「自由奔放」「無邪気」と捉えられる平易な意味の自由(英: free, freewheeling)については説明しない。
責任(せきにん、英: responsibility)とは、元々は何かに対して応答すること、応答する状態を意味しており、ある人の行為が本人が自由に選べる状態であり、これから起きるであろうことあるいはすでに起きた事の原因が行為者にあると考えられる場合に、そのある人は、その行為自体や行為の結果に関して、法的な責任がある、または道徳的な責任がある、とされる。

 これで読めるように、自由と責任というのはある意味同義なのだ。
 自由に振舞う権利はあるがそれだけ、責任は本人に帰すものなのだ。だから私は授かり婚なる言葉は好きにはなれない。自由と責任を無視しただけで、自由気ままに振舞ったことへの責任がないというのはいかがなものか?私がそうした意味で保守的な性格であるというのはそこだ。また、トップは部下に仕事を一任して失敗した場合はトップも大きな責任を担うべき義務がある。誹謗中傷にはこうしたものはおおよそない。
 社会には『嫌だけと義務だからする』ことの連続だ。だがそれが違法行為であるのなら拒む権利はある。違法行為を拒んで不利益を受けた場合社会がその人を守る義務があるからだ。また、耳障りのいい言葉を平然と多用する政治家を信用してはいけない。
 それでいい反面教師がフランス革命にいる。道徳と秩序を重んじる「徳と恐怖の支配」を提唱し、「廉潔の士」の異名を持つ清廉で質素な人物だったとされるマクシミリアン・ロベスピエール(1758年5月6日 - 1794年7月28日)である。
 彼のやったことは一体何か?

・封建的特権の無償廃止。1789年8月に、国民議会が封建的特権の廃止を宣言していますが、そのときは「有償」。今回は「無償」です。お金を払って、権利を買い取らなくてもよい。さらに、亡命貴族の土地を小分けして農民に売却した。しかも、10年間支払を猶予したので、農民は土地を比較的容易に手に入れることができました。
・最高価格令。インフレを抑制するために、政府が強制的に商品の最高価格を決定した。
・徴兵制の採用など軍政改革。義勇軍と正規軍を統合したり、軍隊内の体刑を廃止したりする。これによって、フランス軍は、国境にせまる諸外国軍を打ち破る力を持つ軍隊に成長していきます。
・革命暦の制定。グレゴリウス暦はキリスト教と結びついているということで、新しい暦をつくった。季節に応じて月の呼び方も変えます。ブリュメールとかテルミドールとか、フランス革命期の事件の名前で出てくるのが、この革命暦の月の名前です。
・メートル法の採用。度量衡の統一と、基準の客観化をおこなった。
・最高存在の祭典。革命のモラルを高めるために「最高存在」をまつる大イベントを実施した。最高存在というのは、理性と考えていいと思います。ロベスピエールは、キリスト教そのものを否定していたわけではないようですが、それに替わる崇拝の対象を求めたのです。この祭典は、これっきりで後世には全然影響力を持ちません。
・ジャコバン憲法(93年憲法)の制定。男子普通選挙などを含む民主的内容の憲法ですが、未実施に終わります。
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-81.html

世界史講義録
第81回  フランス革命4 より引用

 だが、その過程で多くの政敵を死刑にした。
 その中には政敵とはおおよそ言えない化学者のアントワーヌ・ラヴォアジエやマリー・アントワネットも含まれていた。仲間だったエベールやダントンまで罪をでっち上げて死刑にした。ルイ16世の弁護人を務めたマルゼルブ (1721年-1794年) 、マリー・アントワネットの妹だったエリザベート王女までも死刑にした。
 これがまともと言えるのだろうか?私は強い不快感を感じている。だから、ロベスピエールが死刑になったことは当然だとしか思えない。彼はギロチン台ではなく、江戸時代のようにパリ市内を裸で引きずり回して鞭を200発打った上でギロチン台に送り込むべきだった。
 ちなみに死刑執行人だったシャルル=アンリ・サンソン(1739年 - 1806年)は死刑廃止論者として知られている。死刑容認派はこのことを考えて欲しい。 またしても北野武がトンチンカンな暴言を吐いている。
 10月12日に配信された『メルマガNEWSポストセブン』35号で、こんなとんちんかんなことをほざいている。しっかり笑い飛ばしておこう。あまりの酷さに読んでいた私は呆れてポカーンだ。

「壊れにくい」だろうと思って買ったのに、「壊されやすい」ってんじゃ笑うに笑えないよな。中国各地で反日デモが起こって、日本車がボコボコに壊されまくったって話だけどさ。
 笑っちまうのが、それで「日本車用ステッカー」がバカ売れしてるって話でさ。「中国愛してる」とか「日本車だけど中国製です」とか、「この車で尖閣諸島を取り返してくる!」とか書いてあるシールを車に貼って見逃してもらおうっていうんだけどね。もう涙ぐましい話だよな。
 日本はやられたい放題だけど、かといってやり返す方法も見当たらないってのが悲しいところでね。
 ニッポン人が向こうをはって「反中デモ」をやろうとしたって大変だぜ。「今日から私はラーメンと餃子を食べません」って宣言したって困るのはニッポン人のほうだろ(笑い)。
 抗議のために店中に餃子をぶちまけたって、「何考えてるんですかお客さん」って店員に怒られるだけだしな。天津丼を箸でグチャグチャにかき回したって天津の市民はちっとも怒ってくれないだろうし、広東麺を火にかけたってアツアツで美味しくなっちゃうだけというね。
「メードインチャイナの服は着ません」なんていったら日本の衣料品業界が干上がっちまうわけなんでね。ニッポンで売られているパンツの99%が中国製だっていうけど、パンツをビリビリに引き裂いたって、困るのは自分だけだもんな。中国の日本車ステッカーよろしく「履いてるパンツは中国製だけど、中身はニッポンです」なんていって愛国心をアピールしたりして(笑い)。でも、パンツの破けたところから顔を覗かせてるのは「陳(チン)さん」だというね。もう何が何だかワケが分からなくなってくるというオチなんだよ。

 馬鹿言うなと言っておきたい。
 中華大陸に精通している青い鳥さんも呆れる放言だ。ただ、はっきり言っておけば最近ではユニクロは東南アジアやASEAN諸国に生産拠点や生産委託先を確保しているほか、ビルマにも多くの日系企業が進出を伺っている。バングラディッシュには伊藤忠商事などが進出しているのが現実だ。
 だが、もうひとつの問題点がある。それは『安い賃金でいかに効率良くこき使うか』という歪んだ考えで今まで日本の製造業が中華大陸に進出してきたかなのである。それで以前韓国でしっぺ返しをくらったのに今度もまた同じ失態を中華大陸で繰り返した。それほど日本人には学習能力はないのかと皮肉りたい。いや、あっても欲望の前には吹っ飛ぶのだろう。

posted by 小野 哲 at 06:00