2013年10月29日火曜日

金融ビックバンの果てに ときわ相互銀行・国民銀行の場合

2012年05月05日
 今回取り上げる金融機関は全く運命が異なる金融機関である。



 国民銀行
 1953年6月19日 中小企業金融の拡充のため株式会社国民相互銀行(登記上の商号は國民相互銀行)を設立。
 1954年5月21日 東急グループ(三菱系列)に入る。
 1974年 国際興業グループ(三和銀行系列)に経営権が移譲。
 1989年4月1日 第二地銀に転換して国民銀行に改称。東急との関係から城南地区、国際興業との関係から城北地区や甲府市・埼玉県鳩ヶ谷市(現・川口市)に店舗を展開させた。東京証券取引所に上場する予定だった。
 1987年4月18日 石川さゆりの個人事務所がカラオケボックス運営会社「カミパレス株式会社(ドレミファクラブ)」(東京都三鷹市)を設立。
 1997年 国民銀行は収益の見通しがつかないカミパレスに対して銀行頭取の承認と石川の連帯保証を得て迂回融資を行い、銀行へ90億円を上回る不正融資による損失を与えた。
 1999年4月9日 取り付け騒ぎによる預金流出により、同年4月11日に金融再生委員会(金融庁へ統合)で「金融再生法に基づく管理を命ずる処分」となり、経営破綻した。金融整理管財人に預金保険機構が選定。1998年時点で経営陣の500億円に上る不正融資と不良債権の飛ばしによって712億円の債務超過。
 1999年10月20日 カミパレスに破産宣告(ドレミファクラブに関しては関連会社に経営権を譲渡)。この案件で、銀行旧経営陣と実業家の種子田益夫・石川さゆり(連帯保証による)らは、不良債権を承継した整理回収機構より損害賠償訴訟を提起され、2002年に東京地裁で経営陣に対しては総額20億円、2003年に種子田に約52億円、石川に2億2千万円の支払を命じられた。石川については整理回収機構が不当として控訴を行うと共に、1992年に新築した豪邸を一時期差し押さえられたが、約10億円の賠償で決着された。
 2000年8月 預金保険機構より1835億円の贈与と共に、350億円の公的資金注入を受ける条件で八千代銀行へ営業譲渡された。営業譲渡の成立により同年10月31日付で解散。
 2009年9月18日 清算結了。


 東日本銀行
 1924年 2.21、茨城県水戸市に於いて常磐無尽株式会社設立。
 1951年 10.20、商号を株式会社常磐相互銀行に変更。
 1952年 本店を東京都千代田区飯田町に移転。
 1953年 本店を東京都千代田区神田富山町に移転。
 1973年 10.1、商号を株式会社ときわ相互銀行に変更。
 1975年 本店を東京都中央区日本橋に移転。
 1989年 2.1、金融機関の合併及び転換に関する法律に基づく認可によって普通銀行に転換し、商号を株式会社東日本銀行に変更。
 2001年 5.14、破綻した新潟中央銀行の営業を一部譲り受ける。
 2011年 4月18日、インターネット専用支店、お江戸日本橋支店を開設。

 この銀行は三井住友銀行が8.07%出資しているほか、三井住友トラストホールディングスの子会社である日本トラスティ・サービス信託銀行が信託口でそれぞれ14.99%と6.14%出資している親密系列といっていい。独立系の銀行だった国民銀行と運命を分けたのは、政治力に過ぎなかった。
 国民銀行の大株主だった国際興業のオーナーはあの小佐野賢治だった。田中角栄と関係が深い財界人として知られており、レイオフも一度もしなかった。それがいいのか悪いのかはここでは論じない。問題はそれ以上に、公正・公平な行政とは何なのかである。