2013年10月29日火曜日

金融ビックバンの果てに みどり銀行の場合

2012年05月04日

 今回取り上げるのは二度破綻した銀行である。



1912年 10月、三木市に三木勧業株式合資会社設立。
1912年 7月31日、三木無尽株式合資会社が三木無尽株式会社に改組、改称
1924年 11月30日、三木金融株式会社を合併
1942年 5月1日、 姫路市に本拠を構えていた全国無尽会社中第4位・山陽金融無尽株式会社と合併、山陽無尽株式会社に。
1944年 6月20日、日中戦争以降の経済統制下、無尽会社の合同が求められ、大蔵省・日本銀行は住友銀行の協力の下で近畿地方の無尽会社を統合しようと兵庫県下の3社(東亜・神戸大同・山陽の3無尽株式会社)が統合、兵庫無尽株式会社が創設される。当時、全国無尽会社総数は63社で、兵庫無尽会社は全国無尽会社中第3位の規模。住友銀行が大阪に本社を置く近畿無尽株式会社(現在の近畿銀行)の株式の過半数保有と役員派遣を行い、その上で兵庫無尽を吸収合併させようとしたが敗戦に伴う財閥解体・集中排除の抜本的改革で実現しなかった。
1949年 9月、神戸市生田区に七福相互無尽株式会社が設立(後の株式会社七福相互銀行(1951年10月)→株式会社阪神相互銀行(1966年10月)→株式会社阪神銀行(1989年2月))。
1951年 10月20日、兵庫無尽は株式会社兵庫相互銀行に商号変更。
1970年 山本義政の後任として兵銀の社長に就任した長谷川寛雄は積極的な拡大路線をとった。
1971年 10月1日、兵庫銀行は高松相互銀行(1951年、寿殖産無尽株式会社(1913年に設立されていたが休眠状態だった志度商事株式会社を1949年に寿殖産興業として買収)を改組)を吸収合併。香川県や徳島県にも店舗網を広げることとなった。
1981年 長谷川が会長となって実権を握りつつ、元日銀考査局長を社長に迎え、1982年には元国税庁次長と社長を交替した。80年代に入って兵銀の預金量と貸出量は増大し始めた。
1987年 兵庫銀行の預金量が1年に1兆円も増大し、1985年の資産1.8兆円、資本金110億円が、ピークの1990年3月にはそれぞれ4.4兆円の2.4倍、640億円の5.8倍へと急膨張、当時第二地方銀行最大手となったものの、内情を見てみれば1985年度から1994年度までの兵銀の主要業種別の貸出件数の推移を見ると、製造では4000件弱が2000件強へと半減、卸小売飲食でも9000件強からほぼ半減し、不動産や株式投資に注力していた。
1989年 2月1日、普通銀行に転換し株式会社兵庫銀行に商号変更。バブル景気もあって株価は5倍に高騰した。
1991年 兵庫銀行は初の海外拠点・香港駐在員事務所を開設。
1995年 8 月、兵庫銀行は経営破綻。
1995年10月27日、神戸財界等の出資により、株式会社みどり銀行設立(資本金709億5,560万円)。
1995年10月31日、株式会社みどり銀行に銀行業免許が交付された。
1996年1月29日、みどり銀行が、兵庫銀行の営業を譲り受けて営業開始。第二地方銀行協会の会員資格にある「会員から営業を譲り受ける目的で新たに免許を受けた銀行」の第一号となった。
1999年4月1日、みどり銀行は阪神銀行に吸収合併されて「みなと銀行」が誕生した。
2000年 7月、当時筆頭株主であったさくら銀行(現・三井住友銀行)が、みなと銀行との合意を経て、株式公開買い付け(TOB)による方法でみなと銀行を連結子会社化。兵庫県内のさくら銀行20店舗(旧神戸銀行店舗)をみなと銀行に譲渡。同年12月には、乱脈経営で破綻した「北兵庫信用組合」から9店舗を譲り受け、兵庫県北部に本格的に進出。
2001年 10月には、理髪店経営者らが組合員の多くを占める「神戸商業信用組合」を合併し、同時に、同信組の店舗を近隣のみなと銀行店舗に統合した。



 今回、ようやくみどり銀行のロゴを入手することができたため、このコラムを書き上げることができた。
 この銀行もいわば三井住友系列であり、やり方はあまり好きにはなれない。預金者そっちのけであることが気に入らないというべきなのだ。シェアを上げることよりも、小さくても信頼される金融機関を目指すべきなのが今の日本の金融業界なのではないか。