2013年10月28日月曜日

金融ビックバンの果てに 北海道拓殖銀行の場合



2012年04月30日

 今回のコラムはかなり長い。
 かつて日本に北海道拓殖銀行という都銀があった。この銀行の歴史を歩むことは、政府の歩みを見ることにもなる。
1899年3月1日 北海道拓殖銀行法可決(22日公布)。
1900年2月16日 拓銀法に基づく特殊銀行として総会開催、北海道拓殖銀行設立(初代頭取曽根静夫)。当時の資本金は政府・道外資本を含む300万円、職員26名、本店は札幌市中央区大通東1丁目。拓銀には金融債発行による資金調達が認められ、道外の潤沢な資金を供給する窓口となった。
1900年4月1日 開業、国策特殊銀行
1939年 北海道拓殖銀行法改正、それまで債券発行による資金調達に基づく長期金融が中心だったのを、広く一般から預金を取り扱った上で短期金融の上限も撤廃された。この普通銀行及び貯蓄銀行業務の兼営で拓銀は急激に規模を拡大。第二次世界大戦に突入すると、戦時統合で北海道および樺太における普通銀行並びに貯蓄銀行をことごとく統合してしまった。また、豊原支店を中枢として全資産の3割以上を樺太に有していた。北海道炭礦汽船や北海道配電(北電の前身)などの軍需産業へのシンジケートローンにも加わるようになった。
1946年 GHQから業務停止命令される。
1949年 政府保有株式を放出し東京証券取引所上場(証券コード:8312)。
1950年 50周年、拓銀法廃止により特殊銀行としての使命を終え旧拓銀の普通銀行業務を継承し、正式に民間銀行として再発足。
1952年 開業以来の拓殖債券(金融債)の発行を停止し、この機能は日本長期信用銀行へ移った。
1955年 発行済債券をすべて償還、同時に全国地方銀行協会を脱退し都市銀行の仲間入りを果たした。
1965年 北海道宝くじの発行の受託を3月末で停止。
1977年 大蔵省出身の頭取に代わって五味彰が生え抜き2人目の頭取になる。
1983年 鈴木茂が生え抜きとして3人目の頭取に就任した。
1988年 バブル景気に乗って不動産融資に注力。だがその際に強引な手法での融資を行ったため不良債権の拡大につながる。翌年、山内宏が頭取に就任。カブトデコムによるホテルエイペックス洞爺建設、ソフィアによる札幌テルメ開業。
1990年 前年から「たくぎん21世紀ビジョン」を策定。米国のコンサルティング会社マッキンゼーに依頼したもので、当初は「道内でのリーディングバンク」「本州でのニューリテール(富裕層向け資産運用)」「アジアでの海外戦略」を三本柱とするものだったが、拓銀幹部の提案により「企業成長・不動産開発支援(インキュベーター)」が最終案に付け加えられた。頭取時代に拡大路線を決定した鈴木茂会長、80年代後半にインキュベーター路線の陣頭指揮をとった佐藤安彦副頭取、「たくぎん21世紀ビジョン」がスタートした1990年に陣頭指揮をとった海道弘司常務の3人は「SSKトリオ」と呼ばれた。この「SSKトリオ」が事実上人事権を掌握し、ワンマン体制を作り上げ、拓銀の拡大路線を推し進めていった。
1991年 ソフィアによるテルメインターナショナル札幌建設。
1992年 海道弘司常務が乱脈融資の責任をとらされるかたちで常務を退任し、関連会社タクトの社長に就任。鈴木茂会長も、取締役相談役に退いた。10月に山内宏頭取らが集まって拓銀本社で開かれた経営会議で、カブトを倒産に追い込むことが決定された。
1993年 カブトデコムへの不正融資が明るみに、ホテルエイペックス洞爺・テルメインターナショナル札幌開業。3月の年度末を挟んだ前後に、拓銀によるカブトデコムの不良債権の「飛ばし」を行っていた。カブトグループの中でも収益力のある甲観光・兜ビル開発の2社を実質的に乗っ取り、傘下にする。
1994年 1月の週刊現代に「拓銀解体の衝撃シナリオ」と題する記事が掲載され、初めてマスコミから「危ない銀行」として明確に名指しされた。4月、インキュベーター路線を推し進めていた総合開発部が廃止され、インキュベーター路線の破綻が完全に明らかになった。年末には大蔵省から「決算承認銀行」の指定を言い渡され、金融当局の強い管理下に置かれることとなる(極秘事項になり顧客・株主・行員はほとんど把握しなかった)。預金額8兆7,000億円。6月、拓銀頭取に河谷禎昌副頭取が昇格。
1995年 5月に発表した3月期決算では、設立以来95年で初の赤字に転落。夏にはムーディーズから、「非常に弱い財務内容・何らかの外部の支援を要する」とされるEランクの格付けを与えられた。
1997年 株価200円割る。大口の機関投資家を中心とした預金解約が始まる。2か月後のテレビ番組「サンデープロジェクト」で「株価から見て実質的に破綻」という発言が放送されると、不安は小口の一般利用者にまで広がり、翌月曜日だけで10億円以上の預金が解約された。預金流出と経営不安がスパイラルとなっていた。
1997年4月1日 貸出金総額に対する不良債権の割合が13.4%と、都銀の中で飛びぬけて多いことが発覚、経営不安と共に資金調達難が生じた拓銀は経営の立て直しを図るべく道銀と「新北海道銀行」として合併構想発表したが、不良債権の認識の相違に対する不信感や、長年のライバルである拓銀への感情論もあり、道銀行員は合併に強く反対。さらに、道銀が拓銀に本州営業撤退による強力な合理化を求めたのに対し、拓銀の営業基盤は事実上北海道と東京に分かれており、営業利益の4割の源泉である本州からの撤退に強く反発したことが決定的要因となり合併は凍結。両行は激しく衝突した。
1997年9月12日 道銀との合併構想を半年延期、株価100円割る。拓銀は道銀以外にも日本興業銀行や日本長期信用銀行に対しても業務・資本提携を打診し、また、親密な明治生命や朝日生命にも増資を持ちかけたが、不調に終わる。9月末には預金額は5兆9,000億円にまで落ち込んみ資金調達が難しくなり、他行に比べて極めて高い金利を付けていた大口定期預金(各金融機関の資金運用部門から各支店に「獲得を巡って金利で拓銀とは争うな」との厳命が下されていた他北海道財務局の担当者が「拓銀さん、こんな高レートで大丈夫ですか?」と拓銀の資金証券部長に声をかけるほど)や、コール市場より資金を集めることなどで何とかしのいでいた。
1997年11月3日 三洋証券経営破綻により群馬中央信用金庫が貸付けていた無担保コール資金約10億円がデフォルトした事で無担保コール市場が大混乱に陥り、各金融機関のクレジットラインは急速に縮小、拓銀はコール市場での資金調達困難に。翌日、拓銀は北海道庁に緊急支援を求め、道は全国信用金庫連合会から500億円の融資を受ける。その後株価は一時59円と額面50円割れ寸前にまでなり、末端の支店にまでも融資回収・預金調達の指令が飛んだ。
1997年11月13日 日銀札幌支店から経営権譲渡を要求される。翌14日、道銀、札幌銀行、複数の金融機関に拓銀の店舗等を「バラ売り」する形での営業譲渡などの提案の末、北洋銀行への営業譲渡を決定する。
1997年11月15日 15時30分に東京・丸の内のパレスホテルにて臨時取締役会を開催し、営業継続断念を全会一致で決定。
1997年11月17日 経営破綻。朝8時、拓銀譲受を機関決定する北洋銀行の取締役会が開催、譲受を決定する。
1998年2月17日 本州分を現・中央三井信託銀行へ譲渡決定。
1998年6月26日 拓銀解散を決議する最後の定時株主総会が真駒内アイスアリーナで開かれ承認。
1998年8月27日 整理ポストに割り当てられていた拓銀株 (8312)を上場廃止。
1998年10月 商法の特別背任罪で河谷元頭取、山内元頭取が逮捕。
1998年11月13日 鈴木、山内、河谷ら三人と元副頭取、元専務、常務ら三十億円を超す融資の決定権を持つ同行「投融資会議」メンバー十一人に108億円の損害賠償請求訴訟初提訴、全営業廃止。
1998年11月16日 北洋銀行・中央三井信託銀行へ営業譲渡
1999年3月2日 元頭取逮捕
1999年3月31日 法人は解散し、清算法人に移行。発表された拓銀の1998年3月期決算では、米国基準での公表不良債権総額は貸出金残高5兆9,290億円の約4割に及ぶ2兆3,433億円にのぼった。破綻後、優良貸出先が減り貸出資産の劣化が進んだこともあるが、旧基準での1997年9月中間期実績に比べ倍増であった。さらに、預金も前年比で3兆2,922億円も流出した。この結果、経常損失は1兆4,743億円となり債務超過額は1兆1,725億円にのぼった。
2003年2月27日 特別背任事件、札幌地方裁判所で無罪判決
2006年1月31日 臨時株主総会、清算終了
2006年2月6日 1月31日の臨時株主総会をもって清算を終えたことから、法人登記抹消。
2006年8月31日 特別背任事件、札幌高等裁判所で実刑判決
2008年1月28日 最高裁で旧役員が3件で敗訴、訴訟5件総額101億4千万円で解決

 これはWikipedia日本語版より引用しているのだが、北洋銀行は拓銀のシステムをそっくりそのまま使うなど徹底的に合理的な姿勢を鮮明にしている。
 拓銀の経営破たんは北海道経済を破綻に落としせしめた。丸井今井、そごう(興銀と一緒に融資していた)、そうご電器、天塩川木材工業、函館製網船具が経営破たんしたほかハドソンはコナミに身売りしたなど、その影響は深刻だ。健全経営していればとかという話では済まされない。拓銀が不幸だったことはバブル経済への警戒感を知らない経営陣が多すぎたことだった。
 いや、期待はできなかっただろう。「個人融資取引を推進すべきである」との持論を展開し、「融資による資金運用は企業先で」と考えていた拓銀首脳陣との間で意見が真っ向から対立して北海道相互銀行(札幌銀行の前身、後に北洋銀行と経営統合する)に出向を命ぜられ、事実上更迭された潮田隆頭取の才能を見抜けなかったことから明らかだ。道相銀に移った潮田頭取は、持論だった個人融資取引を大々的に推進。悲願だった普通銀行転換を果たし、小規模銀行ながら消費者ローンの各種ノウハウを蓄積して大きな収益源として確立したことから、「消費者ローンのパイオニア」として業界をリードするまでに成長していた。後に北洋への営業譲渡が決まった際、潮田頭取は自らの側近に、「あの時奴らが俺の言うことを聞いていれば(=拓銀時代に個人融資の提案を受けられていれば)こんなことにはならなかった筈だ。」と語っているそうだ。
 潮田氏の提言は一つの提言なのだが、私は法人と個人のバランスが取れていなければ意味がないと考えている。