2013年10月29日火曜日

金融ビックバンの果てに 阪和銀行の場合

2012年05月05日

 今回取り上げるのは阪和銀行である。
 この銀行も相互銀行から第二地方銀行となりバブルによって身を滅ぼしたのだ。





1925年 紀南無尽株式会社が、和歌山県田辺市において設立される。以後、1926年までに、新宮無尽株式会社・福徳無尽株式会社が順次設立される。
1941年 同年8月までに、上記3社が順次合併を行い、興紀無尽株式会社となる。
1951年10月 相互銀行法の施行に伴い、相互銀行に業態転換。株式会社興紀相互銀行に商号変更。
1989年2月 第二地方銀行化。株式会社阪和銀行と商号変更。
1989年12月1日 大阪証券取引所第2部市場に上場(使用していた証券コード:8557)。
1993年8月5日 阪和銀行副頭取・小山友三郎氏が射殺される(事件は未解決のまま時効)。
1995年3月 系列のノンバンク会社2社を清算。本体である阪和銀は無配に陥る。
1995年7月7日 最後の頭取となる新居 健(しんきょ たけし)が、当時の大蔵省(現在の財務省)から就任し、経営再建を任ぜられる。
1996年11月21日 中間決算の発表が出来ず、そのまま経営破綻。大蔵省より、銀行法第26条に基づき、預金の払戻し以外の業務の停止命令を受ける(日本の銀行としては戦後初めての事態)。廃業直前まで暴力団関係、右翼団体関係などに総額14億5000万円の不正融資をしていたことが発覚する。
1997年2月22日 上場廃止。
1997年4月9日 破綻後、救済金融機関が現れなかったので、阪和銀の預金払戻しのための銀行として株式会社紀伊預金管理銀行(きいよきんかんりぎんこう)を設立。
1997年11月3日 1992年当時の頭取であった橋本竹治、日原昌彦・同行元本店営業部長、融資先である三共土地開発(1989年、西端と「和興開発」の前田喬社長が、共同出資して設立したもの)の前田雅生社長、実父・和興開発の前田喬社長、山口組系暴力団佐々木組の西畑晴夫組長の5人が、不正融資の疑い(商法の特別背任容疑)で逮捕される。橋本だけが11月30日に起訴され残りは不起訴処分。
1998年1月26日 紀伊預金管理銀行に阪和銀の営業を譲渡。同日、阪和銀行は解散。
1999年3月30日 和歌山地裁(小川育央裁判長)は「暴力団組長への不正融資は銀行の公共性に反する悪質な犯行」として、懲役2年、執行猶予3年(求刑では懲役2年)を言い渡した。公判で橋本元頭取は「融資は小山友三郎副頭取が主導したもので、自己保身の認識はなく、銀行のためにやったもの」と主張した。橋本元頭取は執行猶予付き判決だったこともあって控訴せず、刑は確定した
2002年3月31日 紀伊預金管理銀行が解散。払戻し請求の無かった預金は、和歌山地方法務局に供託された。同行は同年6月27日に清算完了。
2003年1月31日 第5期臨時清算総会により清算完了。(なお、この時点まで阪和銀行株券は名義書換が可能であり、年1回株主総会も開催されていた)
2003年2月27日 旧阪和銀行(和歌山市)の資産を買い取った預金保険機構が旧経営陣7人に総額5億1800万円の損害賠償を求めた訴訟で、橋本元頭取と日原元営業部長が1億1900万円を支払うことで和解合意。
2005年1月27日 橋本元頭取が急死。

 バブルに踊った果てにこのような結末が待っていた…。
 これで困るのは現場の行員だけだ。顧客は困らないが(地元の信用組合や信用金庫、他の地方銀行などに預ければいいのだから)、この場合は完全に銀行そのものが清算されてしまったのだ。しかも、問題なのは責任のなすりあいがあったということだ。
 こうした手合いが手を変え品を変え復活しているのだから困ったものである。