2013年10月21日月曜日

地方百貨店を考える~釧路・丸三鶴屋の場合~



1906年  両角栄治が当時呉服店だった丸井今井札幌本店にて修行を積み独立。南大通にて前身にあたる丸三越後屋呉服店を創業。
1930年  百貨店・丸三鶴屋として北大通に開店。鉄筋コンクリート建築4階建て。4階フロアの面積は他の各階の半分程で大きめの半屋の様な形態であり、残り半分(北大通方向側)が一般開放された屋上であった。
1930年~1931年頃、北見市(旧野付牛町)に北見店を開店。2階建て(屋上無し)
1937年、百貨店法施行。1938年より終戦まで施行され続けた国家総動員法により、物資流通(仕入れ)に大きなダメージを受けている。
1945年 7月14日 米機の空襲を受け、全館焼失。その後、北見店は閉店となった。二年後に百貨店法が廃止されている(参議院 第001回国会 商業委員会 第20号 議事録内容)。
1950年 焼け残った鉄筋・外壁を補修し店内も修復、12月に4階建ての社屋を再建。
1956年 本館に5階・6階・7階部分を増築。屋上は開放され、展望台に。
同年、第二次百貨店法が施行されている。
1968年 赤提灯横丁移転跡に新館開店(地上2階、地下1階)。
1976年5月 新館を2階建てから6階建てに増築。新館6階は一部屋上展望台として一般客に開放される。本館6階の食堂街直営店・テナント入居店の殆どを新館6階に移転。本館屋上展望台は閉鎖。
二 年前に第二次百貨店法が廃止され、代わりに同法内容を大幅緩和した大規模小売店舗法(現在の大規模小売店舗立地法に相当)が制定・施行されている。同法を 活用し、法案施行二年後に長崎屋釧路店が十字街(当時、釧路市内の主要百貨店が集中的に立地していた北大通の中核的商業地域)から1kmほど離れた釧路駅 西地区に出店を果たしている。
1980年 ほぼ1年掛けて、本館2階~5階を大改装工事(その間、該当階フロアは一時閉鎖)。本館全階フロア設置エスカレーターも新機種に換装される。本館6階天井 一部は吹き抜け化。本館6階フロアに(椅子に腰掛け読書中の、初老欧米人男性)ブロンズ像設置。前年9月、徒歩圏に立地していた釧路市立総合病院が郊外へ 移転(入院見舞い客や外来患者からの利用者激減)。本館改装工事と同じ年に行われた行政調査にて、釧路市の乗用車台数が5万台(総人口の約4人に1人の割 合)に達した事が判明しており、同時期の「イトーヨーカドー釧路店 愛国地区出店」「十條サービスセンター大規模増床化」「くしろ市民生協市内店舗大型店集約化」も絡み、専用駐車場を持たない丸三鶴屋にとって逆風が続く。 同時期に近隣地で相次いだ百貨店廃業(ショッピングヤスモト、オリエンタルデパート)もマイナス材料となった。
1996年8月31日 閉店・百貨店業廃業。殆どの従業員は丸井今井へ引き継がれ、丸井今井傘下の完全子会社となった。事務館を含め建物不動産は閉店後も丸三鶴屋が所有し、親会 社となった丸井今井に賃貸する形を取った。土地所有権については、子会社化前の丸三鶴屋創業者一族が保有。翌年、橋本龍太郎内閣により、消費税率が3%か ら5%に上昇。デフレ不況の発端となり、高級品の定価販売が多い百貨店業界全体を直撃したばかりではなく、アジア通貨危機との連動で以後の日本経済全体を 冷え込ませる事となった。
2004年8月30日 丸井今井釧路店大通館として活用されていた旧丸三鶴屋本館建物が閉鎖・売却。
2006年8月20日 丸井今井釧路店 閉店(撤退)。同時に丸三鶴屋も完全廃業。閉店直後と2008年の2回にわたって跡地利用計画が上がったものの、いずれもテナント探しが難航しているため、現在も閉鎖中。

 今回取り上げた丸井今井は今井春雄元社長のバブルに踊った経営もあるが、その後の柴田哲治の無責任経営で何もかもおかしくなった。
 その結果、 ドバイの夢を追いかけようと伊勢丹と提携したが大失敗に終わったのがあの民事再生法である。それで得したのはイオンであり西武百貨店だったではないか。イ オンは丸井今井からの客をキャッチすることに成功したし、西武百貨店は閉鎖も検討していた旭川店の存続に成功したのだ。あほなトップには本当に困ったもの である。