2014年2月27日木曜日

韓流に振り回されるレイシストに自分はない




 韓流ドラマ「冬のソナタ」が口火を切って、ブームが始まったのだが私は元々それほど興味はない。
 ただいいものがあれば取り入れるだけだ。それでも、レイシストの曽野綾子などは以ての外なのだが、まずたいていは話を聞く。排除するということはそれだけ自分がないことを意味するのだ。この曽野という愚か者は佐高信からの対談を断って極右仲間の浜田幸一と身内の三流対談をしていた。批判から逃げ続けているのにしか過ぎない(佐高も厳密に批判から逃げている一面はあるが)。
 私が異端とも会話を避けない(レイシストは以ての外だが)理由には、そこから学ぶことも多々あるからだ。そこから学び、新たな考え方を知ることでその考えに自分はどう対峙すればいいのかを知ることもできる。
 ただ、対話するにあたっては相手があって初めて成り立つのだ。そのことを忘れてはいけない。