2014年5月7日水曜日

さらば佐高信

 前々から佐高については批判を行ってきた。
 私自身は佐高の影響を受けてきたことを隠さないし恥じる必要はない。だが、あまりの不可解さにはもう我慢することはできない。
 不可解な細川護煕支援というのは一体どういうことなのだろうか。私は細川という男を信用することはできないという過去の佐高の言動から宇都宮健児・正統東京都知事の支持に回ると思っていたがこれには驚きを隠せなかった。
 更にもう一つ、キリスト教を破門された悪質極まりないエホバの証人を不当に持ち上げる罪。これで家族間のトラブルが増えるだけだが佐高はそのことに対して責任をとれるのだろうか。私は断固として批判し続けるだけだ。輸血の拒否は命の拒否でありそのことに疑問を唱えた人がエホバの証人から破門されている事実から佐高は逃げている。
 佐高イズムは今や時代に取り残された。共産党批判はその典型例である。批判というよりも感情的ヘイトスピーチと言わずしてなんというべきなのか。そして時代遅れの社民党を持ち上げる始末だ。この社民党は新自由主義者の小泉純一郎と手を組もうとしたほどなのだから理念などない。新自由主義と合理的効率主義は別であり、私は合理的効率主義に基づき共産党でも生活の党でもいい提案があれば話は聞くという立場に過ぎない。
 そして、佐高が決定的なミスを犯したとすればワタミ絶賛の罪だ。これで過労自殺事件が起きたがそれでも口をつぐんで逃げているのだからふざけていると言わずしてなんというのだろうか。これでは浮かれ新党を支持したのと同じことだ。真の哲学は自然が中心である。自然というのはある意味合理的にできているのだ。