2014年7月17日木曜日

この刑罰は見せしめに過ぎない~発達障碍者の犯罪を裁く資格を失った日本~

熊本女児殺害、無期懲役確定へ 最高裁が上告棄却
2013/6/26 13:38 日本経済新聞
 熊本市のスーパーで2011年3月、地元に住む女児(当時3)を殺害したとして、殺人などの罪に問われた元大学生、A被告(20代前半)の上告審 で、最高裁第1小法廷(白木勇自称裁判長)は26日までに、被告側の上告を棄却する決定をした。無期懲役とした一、二審判決が確定する。25日付。
 被告は殺意を否認したが、一審・熊本地裁の裁判員裁判判決は遺体の状況から「意図的に首に強い力が加えられた可能性が高い」として殺意を認定。被告の発達障害も「犯行と関連性がない」と決めつけ、求刑通り無期懲役を言い渡した。二審・福岡高裁判決も支持した。
 一、二審判決によると、A被告は11年3月、熊本市のスーパーの多目的トイレで女児の体を触り、首を手で押さえて窒息死させ、遺体を同市の排水路に遺棄した。
※被告人が精神疾患の一つである発達障害であることから、匿名報道とします。

 まず、最高裁判所と称する連中の無知ぶりに呆れかえる。
 この最高裁判所は沖縄県の名護市辺野古への基地押しつけ移転に反対する心ある市民に嫌がらせ訴訟を行った国の訴えを不当に認めて住民に嫌がらせ罰金を押し付ける権力犯罪を犯した。今回も同じ行為にすぎないのである。
  松尾嘉倫(よしみち)自称裁判長の「女児が絶望的な状況の中で感じたであろう恐怖は筆舌に尽くしがたい。犯行態様は極めて残虐」とやらかした幼稚極まりない判決もどきに高木絹子弁護士は「A被告は事実認定や、発達障害が全く関係ないと認定されたことについて、控訴審の判断を仰ぎたいとの気持ちを述べていた」と一審の過剰判決に対する控訴で述べていたが、二審はその思いに全く答えず遺族の厳罰感情ばかりに傾くとんでもない代物だった。ネットでは被告人はあるカルトの信者だというデマが流れる始末である。弁護側は「犯行の原因となった小児性愛は、責任能力に影響を与えている」と指摘したが、福岡高裁の陶山博生自称裁判長は「小児性愛は基本的人格の偏りに過ぎず、直ちに責任能力に影響を与えない。無期懲役は重すぎて不当とはいえない」と非科学的なマヌケ判決もどきを垂れ流す始末である。ところがそうは言えない、被告人の成育歴などを解析すれば明らかに責任能力に影響があることは歴然とした事実なのである。
 何も私は被害者遺族に「黙れ」と言っているのではない。被害者遺族には事件の真相を知ると同時に被告人に反省を求める権利もある、精神的ケアを受ける権利も場合によっては経済的支援も受ける権利もあるのだ。こうしたものを否定するのは以ての外だ。だがネット世論では被害者遺族が女児から目を反らしていたから殺されたのだという粗暴な暴言があった。私はその考えには不快感を覚える。
  だが、被害者遺族が求めてはいけないほか求めれば言語道断であるとして厳しく断罪されるものもある。それが感情的厳罰(求刑を求める行為も含めるほか被害者参加制度も同様に認められない)だ。被害者遺族の清水誠一郎・真汐夫妻はそういう意味で万死に値するとしか言いようのない、取り返しのつかない大きな罪を犯した。ゆえに私は厳しく批判をせざるを得ないのである。この判決もどきで何が得られたのだろうか。この一家に残されたのは虚しさだけだったのだ。清水は判決もどき確定後の講演会で虚しさを語ったが、私がこのブログで何度も警告したように当然の結末であり、彼らへの重い十字架はこれからなのである。

 そのうえで、この判決もどきの問題点を厳しく指摘する。
 そもそも発達障害がもはや精神障碍者福祉手帳の対象になるまで深刻な問題になっている今、何の配慮もないというのはおかしな話だ。また、暴行殺人事件についての同様の過去の判例からしても異様に重すぎる(どう考えても懲役15年前後だ)。
 この二点からしても、明らかに異様な判決もどきである。そもそもこの種の事件を裁判員裁判で裁かせること自体がおかしな話である。そうなれば感情的厳罰になるのは明らかだし要するに見せしめとしての刑罰、被告人を単に社会から切断(言い換えれば一種の隔離政策)してしまえばいいという無責任かつ安易な方法に逃げるのは目に見えている。
 そんな方法で事件の再発ができるとは私には思えない。要するに見せしめだ。私自身も発達障がい当事者で、正直に言ってこの種の事件には不快感を覚える。だが、感情的厳罰を行うのならこの種の問題は解決できないし発達障がい当事者全体への独断と偏見になりかねない。
 発達障がい当事者への感情的厳罰で批判されたケースもあった、


この種の判決もどきはこれからさらに増える。
 そして気が付いたら取り返しのつかない悲劇が待ち受ける。
 何が必要なのか、私達は考えねばならない。
 被害者や遺族に寄り添いつつ、被告人の再生にはどういう教育が必要なのかを、
 真摯になって考えねばならない。
 殺された女児はどう思っているのか、遺族以外の私達が冷静な観点で考えるべきなのである。
 今のままでは発達障がい当事者の犯罪を裁く資格は日本にはないと言わざるを得ない。