2014年7月23日水曜日

諦めるのはまだ早い~スキャットマン・ジョン~


<Scatman John> -私の名- 私の名はジョン・ラーキン。私は吃音者です。
8年ほど前、長い間私を苦しめてきた”どもり”が一つの才能であり、強さの源、隠れた謙遜である、ということを発見しました。それ以来、苦しみに満ちた人生から解放され、困難とではなく解決とともに生きるようになりました。
 その解決が何だったかって?それは全ての苦しんでいる人を助けることです。
 それで私はこのアルバムをこの混乱した世界で苦しみを抱えながら生きている人 -吃音者も含めた- に捧げるのです。
 -CD『スキャットマンズ・ワールド』ブックレットより-

 今回取り上げる人物は、歌手のスキャットマン・ジョン(1942-1999)である。妻のジュディがFacebookを続けているが、彼はその歌でしか注目されなかった。
 だが、彼は歌手というよりは吃音に悩む人たちの希望の星でありたかったそうだ。
 日本の吃音者団体である全国言友会連絡協議会とも深い交流があり、1996年の「日本ゴールドディスク大賞」の賞金を同団体に寄付、さらに同団体の全国大会にビデオ出演なども行っていたが、当時の日本でのプロデュースは、彼の真摯な姿勢、深い歌詞などを真剣に広めようとしていたとは言い難かった。また『Scatman (Ski Ba Bop Ba Dop Bop)』は前記の通り吃音の問題を歌っているのだが(歌詞にも吃音という単語が多く出る)、吃音の社会的な認知にはつながらなかった。
BMGビクター(現ソニーミュージック)の担当だったスタッフは彼のことを、「贅沢を言わない、人一倍仕事をする、周りにいつも感謝する(ぶどうの巨峰が大好き)とても優しいおじさまでした」と語っている。


---今回はプロモーションのための来日ということで、方々のテレビやラジオに出演されてお疲れのところ、時間をとって下さってありがとうございます。
スキャットマン:  いえ、大丈夫です。それにこうやってスキャットマンの帽子をとり、上着を脱いで、大変リラックスしていますから。今日はスキャットマンとしてではなく、た だのジョン・ラーキンとしてお話ししたいと思います(笑い)。私は吃音者と一緒にいると大変リラックスできるんですよ。

---日本は初めてですか。
スキャットマン:  ずっと日本に来たいと思っていたので、今回来日できてとても嬉しいです。私は元々ジャズ・ピアニストで、日本はアメリカのジャズミュージシャンにとってあ こがれの土地なのですよ。日本はジャズを演奏するにはとてもいい場所ですからね。今回来日したのはジャズではなくポップスのミュージシャンとしてですが、 「スキャットマン」はパッケージはラップ、ハウス系の音楽だけれども、自分にとってはジャズでもあります。(スキャットで)ウビルドゥボドン、ウ ビルドボドン、ダバダバダ、なんて具合にね。

---今日は皆ちょっと緊張しているのですが・・・・・。偉大な人の前ですから。
スキャットマン:私を「偉大な人」とと考えてくれるのは嬉しいけれど、実はあなたと同じようにごらんの通りのただの人です。私は全ての人は平等だと思っているし、そう考えることがみんなを幸福にすると思っていますから。
 今回のプロモーション・ツアー中、いろいろなインタビューを受けましたが、その中で私は、なるべく自分が吃音者であること、それを受容したときにそこか ら解放されたことを言ってきました。吃音者は吃音が別に心理的、生理的に異常ではないことを広く世間に知らしめて行かねばならないと思っていますから。吃 音はこれまで私にとってもっとも大きな問題でした。ですが今は、強さ、謙遜さの源となっています。私は吃音者であることによって、より人間的になれるので はないかと思います。
 アメリカに帰ったらNSP(National Stuttering Project )注1)の自分の支部のミーティングで、日本であなた達言友会の人に会ったこと、そしてそれが今回の来日のもっとも印象深い出来事であったということを伝えたいと思っています。

---NSPに入っておられるということですが、どのような活動をされ、また、NSPがどんな影響を与えましたか。
スキャットマン: 1991 年頃、はじめてNSPのミーティングに参加しました。吃音の他に私はかつてアルコールや薬物の問題を抱えていましたが、自分がアルコールに依存しているこ とを認めることによって、そこから回復出来たと思います。それは1987年のことでした。しかし自分が吃音者であることを認めるにはもう少し時間がかかり ました。NSPのミーティングに参加して初めて自分が吃音者であることを認めることが出来るようになっていきました。たぶん、吃音に関して最も重要なこと は、これは私が達成しようとしてきたことですが、吃らないようにという努力をやめること、そして吃音を恥ずかしく思うことをやめることではないでしょう か。これが大変なことであるのは皆さんもお分かりだと思います。私がいつも自分に言い聞かせているのは、すべてのことには何らかの意味がある、たとえそれ が困難な問題であっても、ということです。NSPに参加するようになって、自分は吃音者という大きな仲間の輪の中にいるのだ、と感じました。そうした中 で、幼少時代から、そして成人してからも私を苦しめてきたどもりからだんだんと解放されていくことを感じるようになったのです。
 NSPに参加してからもっとも印象深い出来事は、今年の6月、サンディエゴのNSPの全国大会で演奏する機会を持てたことです。「スキャットマン」のビ デオを流しながら、私は歌い、皆はこうやって(うれしそうに手拍子をしながら)応えてくれました。演奏の後、全国大会に集まった皆の前でこれまでの自分の 人生、また吃音について話をする機会も与えられました。それはこれまでの人生の中でもっとも素晴らしい出来事でした。
皆さんも「スキャットマン」(シングル曲)の歌詞の一節をご存じでしょう。
(歌いながら)
"Everybody stutters one way or the other,so check out my message to you.As a matter of
fact don't let nothing hold you back.If the scatman can do it,so can you.”
(いずれにしろみんな吃るんだ。僕のメッセージをよく聞いてくれよ。実際どんなことがあってもあきらめたりしちゃいけない。スキャットマンが
出来るなら君にだって出来るさ)

  この歌の中で私が言いたかったのは、誰でも「吃る」んだ、ということです。それはいろんなところに現れる。私たちみたいに言葉で吃る人もいれば、それが行 動に現れる人もいるだろうし、性格がそうかもしれない。つまりみんな問題を抱えている、みんな何らかの悩みを持っている。そしてそのような悩みや問題を新 たな強さの源にすることが出来るのではないか。悩みの中に埋没してしまったり、それを恥とすることもできるけれども、そのような問題を乗り越えることに よって、それをポジティブなものに変えていくことが出来る。「スキャットマン」にこめられているメッセージとはそういうことなのです。
現在私が人生の目標としていることは、大きくいえば私の出来る限りあらゆる人を救うこと、でも特に2種類の人々の助けになることが自分にとって重要ではな いかと考えています。一つは吃音を持つ人達、そしてもう一つはアルコールやドラッグの問題を抱えている人達。私はどちらの分野でもかなりの経験を積みまし たからね(笑い)……。

 そうそう、「スキャットマン」の歌詞にはこういうフレーズもあります。
”Everybody's saying that scatman sttutters,but doesn't ever stutter when he sings.
But what you don't know I'm gonna tell you right now that the stutter and the scat is the same thing"
 (スキャットマンは吃るってみんな言うけど、歌うときは吃らないんだ。君は知ってるかい? 吃りとスキャットは同じことなのさ。)


 今度のアルバムで試みたスキャット・ラップというの はジャズ・スキャットとラップを融合させたものなのですが、ここで歌っているようにスキャットというのは解放された吃音である、と私は考えています。だか ら私達が吃っているとき、それはスキャットしていると考えてもいいんですよ。もし私が吃っていなかったらスキャットマンにもなっていなかったでしょう。だ からかつて吃音は私を支配していましたが、今は私の召使いになっている、ともいえるでしょう。もはや私は吃音の犠牲者ではありません。
 とはいえ、私もまだ完全に吃音が恥ずかしくなくなった、とはいえません。自分の中では、やはり時々吃ることを恥ずかしく思う気持ちがあります。特にテレ ビやラジオの仕事で吃るときなんかにね。でも、そのような恥ずかしい気持ちを乗り越えるべきだと思っているし、それがまた自分を成長させるということはよ く分かっています。
 実際、時々こうやって(「ウーーー」という音を出しながら)音を引き延ばして発音したりしますが、自分にとってもっとも良い方法は吃音を恥としないことだと思います。
そしてもう一つ大事なことは、流暢に喋れる自分、そのような経験を大事にし過ぎないということです。流暢に喋れることにこだ わらないこと、仮にすらすら喋れることがあってもそれが永久に続くことはないのだから。吃らない自分だけが本来の自分だと思っていたら、今度は吃ったと き、より恥ずかしい気持ちを抱くことになるでしょう。アメリカではこういうことをtreasuring fluency(流暢さを宝とすること;流暢さにこだわること)と呼んでいます。吃るか吃らないかは結局のところ神のみぞ知ることで、私に出来ることはど もりを恥ずかしく思わないこと、自分を受け入れること、それだけだと思います。もちろん、これは私の意見であり、他の人にはそれぞれの吃音に対するアプ ローチがあってしかるべきだと思っていますよ。人生の中でどう吃音と向き合っていくかについてはね。


---それは自分の経験からそう思うようになったのでしょうか。たとえばテレビとかコンサートなどでの体験を通して?

スキャットマン:  アルコールやドラッグの問題から解放されてから吃音の問題と直面せざるを得なくなりました。たとえば、コンサートで話し始めるとき聴衆に自分は吃音者であ るということを言ってしまう、それが自分にとってとてもよいとわかりました。そう言わなければ、聞いている方も何が起こっているかわからないですからね。 さっき言ったように、時々、自分で知らない内にテクニック的なことを使うこともありますし、テレビなどで無理をして流暢にしゃべること(forced fluency)もあります。それは、うわーっと一気にしゃべってしまうようなことですね。たとえば、こんなふうに・・・・


(一気に)"Hi,I'm Scatman John!
right here live on K.N.O.P.! right here in Japan Osaka,Yokohama,yeh,baby,
u-badabadabada-dboーdbodonn-dodiyodibonbon・・・・・”
(スキャットマンジョンです!K.N.O.P.、日本の大阪、横浜からライブでお送りします。イェイ、ベイビィ、ウバダバダバード
ボドボドボドディヨディヨディーボンボンボン・・・・・・)
(一同笑い、拍手)


無理に流暢にしゃべることとはこういうのです。でもいつも出来るわけではありません、こんなことしてたら疲れてしまうしね。普通にしゃべるときは、こう やって吃っていますよ(笑い)。今日はかなり疲れているけれども、というのは今回のプロモーションツアー中ちょっと頑張りすぎたみたいです。テレビやラジ オなんかでさっきみたいに無理に流暢にしゃべるのをちょっとやり過ぎましたからね。(笑い)

---来年(96年)の春、言友会の30周年記念の全国大会にゲストとして来て頂けませんか。
スキャットマン: 先日そのことを聞き、非常に興味を持っています。今は、はっきりと言えないのですが、是非出席したいと思っています。ハンブルグの事務所に行ってスケジュールを調整するよう言っておきます。それは自分にとっても、とても重要なものですから。注2).

---今日は本当にありがとうございました。

 (1995年9月13日・キャピタル東急ホテルにて/全言連ニュース No.9('95 11・12)に掲載)

注1)National Stuttering Projoct(=全米吃音プロジェクト)。アメリカ最大の吃音者のセルフヘルプグループで55の支部を持ち、会員数は約4000。
注2) 結局、多忙のため96年5月に行われた第30回吃音ワークショップin東京"にスキャットマン・ジョン氏の参加はなりませんでしたが、氏は全言連のメンバーへのメッセージビデオを特別に製作して送って下さいました。
 http://archive.today/SkDU#selection-97.1-451.106
写真も掲載されていましたが管理人の考えで使いませんでした。

「歌ならどもらないが、インタビューを受けたら、必ずどもるだろう。みじめな姿をさらしたくない。」

「もしも世間に私のどもりが知れ渡ったらどうしよう」
「次から次へと沸き上がる不安に、私の心はもう、 すっかりパニック状態でした。もしかしてこのシングルがヒットしたら、最も恐ろしいことが起こる。いよいよあの大きな象に向き合わなければならないのか。 ずっと、自分の心の奥の方に隠し持っていた現実と向き合わなければならない」

 ここまで悩んでいたことを、私達は知らなかったのだ。
 吃音ひとつがこれなら、精神疾患のしんどさをわかって欲しい。障がい当事者はみんななんだかんだ苦しみ歩んでいるのだ。障がいを抱えているから駄目だではない、そこに残された可能性を諦めずに見つけてそこから突破する勇気も必要なのだ。
 だが、勇気を無理に求めてはいけない。見守ることが大切なのだ。