2014年7月5日土曜日

死刑にして問題は解決できない~精神疾患当事者への刑罰の在り方を問う~

長崎ストーカー殺人、二審も国際法違反の死刑=無罪主張退ける-福岡高裁

 長崎県西海市で2011年12月、ストーカー被害を訴えていた元交際相手の母親と祖母を殺害したほか、女性に暴力を振るってけがをさせたほか、女性のきょうだいら8人に脅迫メールを送ったなどとして、殺人や脅迫などの罪に問われた無職A被告(20代後半)の控訴審判決が24日、福岡高裁であった。古田浩自称裁判長は一審長崎地裁の裁判員裁判の 死刑判決を支持し、被告側控訴を棄却した。同被告は一審同様、無罪を主張していた。弁護側は上告する方針。
 古田自称裁判長は判決で、事件翌朝に凶器の出刃包丁を所持し、衣服などに被害者2人の血痕が付着していたことなどからA被告の犯行と断定した一審判決を、「判断過程に不合理な点はない」と支持。凶器の所持などを「被告が凶器を持っていたかのように警察官らが演出した捏造(ねつぞう)」とするA被告の主張を、「取り調べ状況を撮影した映像などから被告は自発的に供述しており、被告の主張は信用できない。根拠を欠く荒唐無稽な主張」などと退けた。
 その上で、「強固な犯意に基づく無慈悲な犯行」と批判。捜査段階で認めながら公判で否認に転じたことについて、「動機は身勝手かつ利己的で人命軽視の態度が顕著というほかない。遺族らの処罰感情は厳しく、社会に与えた影響も大きい。不合理な弁解で、落ち度のない2人の命を奪った無慈悲な犯行で、更生の可能性も乏しい」とし、死刑判決が重過ぎて不当とは言えないと判断した。(2014/06/24-17:20)
※裁判中であるほか、被告人が精神疾患であるため実名を完全に匿名にします。また、国際法及び日本国憲法に背く行為を批判する為裁判官については自称とつけ社会的制裁を実施します。
(C)時事通信社他

 残念だが、この判決については全く私は支持できない。
 この事件の被告人は裁判員裁判(これとても憲法違反なのだが)の第10回公判(2013年5月28日)で明らかになったように「善悪の判別能力や行動制御能力に影響を及ぼすとは考えられない非社会性パーソナリティー障がい」だった。被告の精神鑑定を担当した精神科医の証言によると自己を劇化する「演技性パーソナリティー障がい」の傾向も見られるとしたうえで「被告の供述は虚言と言わざるを得ない」というのだ。
 さらに突っ込んで言おう。精神疾患当事者が罪を犯した場合、海外ではどうか。2002年6月、米連邦最高裁は知的障がい(米国では「学習障がい」ではなく「知的障がい」という語が用いられる)を持つ人びとに対する死刑を違憲とした。その理由は、知的障がいのため過失責任が少ないということと、こうした人びとに対する死刑の抑止効果に疑問があるからだ(アムネスティ公式サイトより)。
 さらに日本政府は国連から死刑制度の事実上の廃止命令と死刑確定者の処遇の大幅改善を命じられている。これが、国際社会の常識だ。独立した審査により、精神疾患者に死刑が執行されないようにすること等を命じられた意味は、つまり懲罰ではなく治療に重きを置いた懲罰に舵を切るよう命令されたに等しいのである。
 当然私は遺族には、家族を失ったことに対するケアや経済的支援などはあっていいと考える。しかし、今の形での感情的厳罰では第二第三の悲劇を招くことは間違いない。大切なのは被告人に対して罪とどう向き合わせるかなのである。
 当然問題なのは、なぜこの事件が起きたかなのである。私ははっきり言って被害者の三女にも怒りを覚えている。ネットで安易な男女交際を始めた事に対する反省の念がないからだ。だが、それであっても暴力をふるったり命を奪ったことに対してはきちんと制裁があるべきだ。そこに死刑という方法では、問題の解決にならないのだ(どっちもどっち論は事なかれ論にすぎない。原因を分析し責任に対しては加害者も被害者もきちんととるべきだが理不尽すぎる事はあってはならない)。
 ラビ・バトラという哲学者の師匠であるサーカー(1921-1990)の哲学を考えてほしい。


司法システムは、刑罰システムではなく、矯正システムであるべきだと強調します。どんなによい司法システムであろうと欠陥は必ず存在し、罰として行なわれたならば、懲罰を課せられた人々の心に復讐 の念が生じます。したがって罰としてではなく矯正として実施されるべきだというのです。


「道徳的な観点からも、もし、社会的な清浄 を維持したいと願うならば、人々は、懲罰的な処置ではなく、矯正的な処置をとる権利だけをもつべきです。人間存在のあらゆる脈動をコントロールする法が、人々を罰する唯一の権威です。他にはありません。・・これらの措置は懲罰的ではなく、矯正的なものであるべきです。司法制度に欠陥があったとしても、矯正的方法だけがとられたとしたら、その時は、誰かがひどい目に会う可能性はありません」


人間は他の人を罰する権利をもっていませんが、矯正する権利は誰もがもっているというというのがサーカーの考えです。 


「社会的な観点あるいは人間的な観点からは、あらゆる人が、他のあらゆる人のふるまいをただす権利を持っています。これはあらゆる人間の生まれながらの権利です。どんな学者も、自分が接することになった人の欠点を正す人々の権利に異議を差し挟むことはできません。この権利を認めることは、社会の健全さのために不可欠です」

サーカーは、特別な場合をのぞいては死刑を廃止すべきだと言います。その理由の第一は、この世に完全なものはありえず、司法システムも過ちをおかしうる不完全なものだからです。


「この相対性の天地万物に完全なものはなにもありません。だから、世界の司法制度が、過去、現在、未来にわたって決して完全ではありえなかったことはまったく当然なことです。それゆえ、この不完全なシステムにもとづいて誰も極刑(死刑)を与えられるべきではありません」(Justice)


第二の理由は、治療と矯正措置の機会をすべての人に与えるべきだという観点からです。生まれつきの犯罪者のところで述べたようにひどい頭痛に対して首を切ってその頭痛を治すようものだからです。


「す べての個人が、犯罪人であろうとなかろうと、自分のおこないを矯正するチャンスを与えられるよう主張できます。だから、プラウトの法律構造においては、誰 もが自分の性格と行いを矯正する十分な機会を与えられるべきです。もし、ある人が極刑を宣告されたら、その人は矯正する余地を失います。だからプラウトは、この種の罰を非難します」(Justice)


しかし、戦争のようなきわめて特殊な場合に死刑を正当化する状況が生じる場合もあると言います。


「ある人が悪魔になって、集合的利益に背いて進み、そこに矯正の可能性がない場合、極刑を正当化する状況が生じるかもしれません。たとえば戦争中は、この例外 が時々許されるかもしれません。しかし、一般的には、私たちは原則として極刑を支持すべきではありません。処罰は犯罪に対して適切なものであるべきです」 (Justice)

この思想こそ今こそ裁判官たちは見直すべきなのである。
法の良心に従い、感情的厳罰を排し、客観的な視点からの犯罪防止に立ち上がるべきだ。