■松阪市長を辞任する理由

【塩田潮】松阪市の市立図書館の事業に関する2014年度補正予算案が市 議会で否決されたことを受けて、12月16日、市役所での記者会見で「市長辞任」の意向を表明した、と報じられました。松阪市は民間資本を活用した社会資 本整備(PFI)による市立図書館の改修と運営を計画し、9月にも予算案を市議会に提出したのに、否決されています。市長として、今回の事態をどう受け止 め、市長辞職の決意を固めたのですか。
【山中光茂(三重県松阪市長)】市長という職責は、「政治家」ではなくて「行政の長」と考えていま す。市長として一つひとつの判断や行動をすること、または判断も行動もしないことがすべて市民の幸せにも痛みにも子どもたちの未来にもつながるという緊張 感のもとで仕事をしています。今回の議会が2年間にわたり、市民ともども協議してきた子どもたちの未来につながる案件について反対の理由すら明確に示され ないままに、多くの議員が声も出さないままに否決されるという事態において、「議会の無責任さ」による結果だとしても、「行政の長」として結果が出せな かったことについて責任を取って辞職を表明しました。
【塩田】2015年3月に市長を辞職し、4月の統一地方選に合わせて市長選を実施する計画とのことですが、再出馬・再選を目指すお考えですか。
【山 中】今回の辞職においては、「行政の長」として市民の幸せにつながる事業の未来が結果として失われてしまったことに対する統括責任者としての「けじめ」で す。否決した議員を選んだ市民の責任、事業執行にたどり着けない市長を選んだ市民の責任、どのようなリーダーを松阪市において選ぶかの市民の役割と責任を 考える市長選挙になればと思っています。出馬をすることが松阪市の幸せにつながると市民が判断すれば、私として、行政の長としての役割を続けるつもりで す。
【塩田】2009年2月に松阪市長選で当選し、当時、33歳で全国最年少の市長と話題になりました。07年4月から三重県議を務めていましたが、なぜ松阪市長に転じたのですか。
【山 中】県議となって1年9カ月が過ぎたとき、市長選がありました。過去2回連続無投票当選の現職市長が自民党や民主党、地元の医師会、建設業協会、労働組合 などの支援を得て立候補しました。そのとき、市民から地域の懇談会で市政への不満や住民としての多様な悩みや課題を聴いていました。ただ、市民の人たち は、仕方がない、そんなものだとあきらめの言葉を漏らすだけでした。それらの声に触れながら「市民の声」を土台にした市政を行うことを決意しました。選挙 では三重県の全国会議員、全県議、各種政党や団体が相手方に付きましたが、7800票差で当選しました。
【塩田】政治の世界に入る前、NPO法人「少年ケニアの友」の医療担当専門員としてケニアに出かけて活動していますが、なぜケニアに。
【山 中】もともと小学校4年のとき、学校の授業で担任の先生から、「地球の裏側のこと」をどのように考えるのか、と言って、アフリカの難民の子どもの悲惨な光 景のビデオを見せられたのがきっかけです。私は、トイレに入ると、トイレの外の世界がなくなっているのではとか、そんなことばかり考える子どもで、小学生 の頃も、生きているって何だろうと考えていました。「地球の裏側のこと」はそのとき以来、ずっと頭から離れませんでした。
自分は将来、「地 球の裏側のこと」をやるんだと決心して、高校時代から元国連事務次長の明石康さんの講演を聴いたり、難民高等弁務官だった緒方貞子さんの話を国連大学に聞 きにいったりしました。途上国の現場で働くことと、現場のための制度を創ることの両方の大切さを考えさせられ、外交官を目指すことを決めました。

■医師として「地球の裏側」に行く

【塩田】慶大在学中は、外交官試験に合格するために頑張ったんですね。
【山 中】大学の講義は欠かさず出ました。一方で、夕方から児童養護施設でボランティアに従事し、夜は外交官試験の専門学校に通いました。銀行員だった父親がそ の数年前、勤めを辞め、母親が働いて家計を支えていたので、大学時代はアルバイトしなければならず、最初は家庭教師や予備校の先生なんかもしました。
友 人に「いいバイトがある」と言われて、夜の世界で働きました。東京の新宿・歌舞伎町や川崎などで、客の呼び込みやホストクラブ勤め、キャバクラのスカウト などで生計を立てていました。怪しい世界にも平気で踏み込んでいくタイプなので、水商売の世界の人たちと深い縁ができました。危ない仕事とか、他の人がや りたがらない仕事もまじめにやったので、信頼感を得て、その世界でも中心的な役割を担うようになりました。ホステスの愚痴や悩みの聞き役、トラブルの調整 もやりました。やくざと向き合って、命の危険を感じながら、話をつけることもありました。収入は一番よかったときで1年に1500万円近くもありました ね。
【塩田】慶大卒業前に受験した外交官試験の結果は。
【山中】論文試験などの後、最後に20人前後、面接試験に残ります。 その段階で落ちる人はほとんどいないんです。成績は上位だったので、合格するとわかっていたのですが、最終の面接試験で「アフリカや途上国などを中心に、 テロや感染症、貧困など、世界の共通利益に関わる外交をやりたい」と言ったら、外務省のキャリア官僚の試験官に鼻で笑われました。「日本外交は大国間の外 交が主軸。アフリカとか途上国の外交は日本の国益にならない。日本の外務省に入る限り、その感覚は棄てなさい」とはっきり言われました。私は外交の現場で 途上国の問題や貧困、平和の問題に関わっていく仕事をしたいという一心だったので、自分から辞退しました。
【塩田】外交官の道をあきらめて、次にどうやって「地球の裏側」を目指したのですか。
【山 中】何年かかってもいいから勉強して医学部に入り、技術を身につけてアフリカや途上国に、という覚悟を持ちました。たまたま父親が「こんなのがあるよ」と 言って、群馬大学医学部が国立大学で初の試みとして編入学試験を行うという新聞記事を持ってきました。理系でなくても大卒なら受験可で、定員は15人、1 泊2日の「温泉入試」で合否を決め、3年次に編入という試験です。約2500人の受験者の中で、文系の合格者は私一人でした。
【塩田】医師となって、「地球の裏側」に行くという決心を実現したわけですね。
【山 中】群馬大学の医学部を卒業して、松下政経塾に入りました。目的はただ一つ、「地球の裏側」へ行って活動するためです。政経塾のほうは、ボランティアをさ せるために入塾を許可したわけではないと言って、なかなかアフリカでの活動をOKしてくれませんでした。だけど、粘ってなんとかアフリカ行きを認めてもら い、南アフリカやケニアに出かけるスタートラインを創ることができました。

■自分を「永遠の偽善者」だと思う理由

【塩田】その後、政治の世界に入ったのは、どんな動機と経緯だったのですか。
【山中】スウェーデンで医療や福祉の活動をしていた山井和則さん(現衆議院議員。民主党)の著書を読んで、山井さんの生き方に強い関心を持ち、門を叩きました。山井さんの紹介でスウェーデンにも1カ月くらい出かけて勉強しました。
山 井さんがNTTの労働組合の組織の支援を得て議員になっていた関係から、松下政経塾にいたとき、三重県出身の伊藤忠治さん(当時、衆議院議員。民主党)の 事務所で研修させてもらいました。その流れで民主党三重県連の事務局に勤めました。その後、松阪を選挙区としていた森本哲生さん(当時、衆議院議員。民主 党)の秘書を経て、三重県議になりました。民主党三重県連事務局にいたとき、岡田克也さん(現民主党代表代行・元外相)や森本さんから「君が活動している フィールドを見にいきたい」と言われて、私が案内役でケニアの最貧困地帯にお連れしました。そういうご縁も重なり、政治の世界に巻き込まれてしまいまし た。
私はそれまでの人生でさまざまな「現場」に触れる中で、途上国でも日本でも、どの世界にいても、さまざまな違った価値観を持つ周りの人 たちの痛みや幸せに寄り添う仕事をさせてもらえる人生を歩みたいと確信しました。その結果として、単なる一つの道としていま政治の世界にいるだけだと思っ ています。県議選に出たときも「1%の痛みに挑戦する政治」を掲げ、当選後も、他者の痛みに寄り添うということばかり話しています。
【塩 田】夜の世界で猛烈に働きながら外交官試験に挑戦し、その後に医師となってアフリカに出かけ、帰国後、県議を経て、33歳という若さで市長になるという人 生は、普通の人には真似ができない歩き方です。強い意志と不屈の精神、超人的な奮闘に誰もが目を見張ると思います。自分をどんな人間だと意識しています か。
【山中】自分では、「永遠の偽善者」を目指している人間、といつも話します。いまでも「偽善者市長」として、本当に「偽善者」というプライドを貫く行動を取っているつもりです。
本 当はすぐ欲望に流されてグータラしたがる。身近な人に優しくなれない。自分でそれがわかっていますから、理由をつけてカッコをつけていかないと「人間失 格」になるタイプなんです。自分で偽善者と言い続け、綺麗事を言っていないと、もうどうしようもない人間だと思っているんです。
気ままに生 きてしまい、どうしようもない人間になっていく、そんなタイプでありながら、なんとかいま世間の中で生かされているのは、少なくとも「偽善者」というベー スがあって、それを守って生きているからです。辛いとか辛くないという価値観ではなく、「綺麗事」を言い続ける偽善者を貫けるならどれだけ嫌われても恐く ない。自分が偽善者という「仮面」と「プライド」を失ってしまえば、生きていく価値もないと思っています。

■集団的自衛権の解釈変更を裁判で争う

【塩田】松阪市長として、市の借金減らし、住民との意見聴取会、市内全域での住民協議会の設置、市民病院の改革、東日本大震災後の被災地支援などに取り組んできました。市民を巻き込み、役割と責任を持たせる方式は「松阪モデル」と呼ばれています。
【山 中】住民の意思を地域に反映させ、住民自身が役割と責任を持つ街づくりを徹底してやってきました。トップダウンではなく、どんな街にするか、住民に責任を 持ってもらい、行動できる街づくりを目指して、毎週末、意見聴取会、ワークショップ、地域との懇談会を開いてきました。おそらく日本で一番、住民と対話し ている首長だと断言できますが、その案件を市の職員とも徹底的に協議する。私自身、松阪市引きこもり市長なんです。
最初は、街づくりの組織 化は「行政の下請け」という批判もありましたが、地域案件について地域住民が責任を持ってやる。そのために、財源については、行政も地域も住民に説明責任 を果たせる事業を、ともに汗を流せるならしっかり担保します、と言っています。代表者だけを集めた審議会や検討会、パブリックコメントという形は、国でも 地方でも一番、悪質です。ああいう形は廃して、住民との直接民主制のもとで、シミュレーションを出して住民に方向性を決めてもらう。こういう行政をやって きました。
【塩田】民間と提携してその活力を市政に活用する手法も注目されています。
【山中】介護予防でカラオケ機器の第一興商、学校での教育プログラムでソフトバンク、高齢者の見守りサービスでヤマト運輸、老人福祉施設への指導員派遣で化粧品のハリウッドと提携してきまし た。私は「明るい癒着」と呼んでいます。民間の優位性のある提案をどんどん受け入れると標榜しています。私は企業の献金はもらいません。選挙では政党や業界団体はすべて相手方に回ります。企業には個人としてはまったくお世話にならない。そういう形で企業との「明るい癒着」をオープンにして、自分の利益のためではないことを明確にしているからできます。
【塩田】一方で、2014年7月、安倍晋三自称内閣(以降安倍一味と呼称)が集団的自衛権の憲法解釈変更について行使容認の閣議決定を行ったのに対して、「憲法違反」と訴え、裁判で争うと主張しているという記事を読みました。
【山中】安倍一味は、まず憲法第96条の改正手続きの条項の変更という姑息なやり方を模索し、その後に秘密保護法案を成立させました。硬性憲法の基軸の第96 条を変えていこうというあたりから、何かきな臭いイメージがあった中で、続いて集団的自衛権の憲法解釈変更の閣議決定を行いました。
もとも と権力を抑制するのが憲法の目的で、行政としての最高意思決定である閣議決定は、本来なら憲法上の抑制を受けます。私は「たかが行政機関、たかが内閣総理 大臣」という言い方をしますが、憲法の法(のり)を超えて、憲法という国民意思を淘汰する決断を下したことに対して、非常に危機意識を持ちました。立憲主義と、日本が平和国家を維持してきた原点の両面の破壊を、たかが内閣総理大臣が行った。権力構造として憲法のもとにある内閣が行った明確な憲法違反です。 これまでの国体を変えていく方向性をつくった。そこを訴えているわけです。
もう一つ、憲法は明文で、武力による威嚇と武力行使は「国際紛争を解決する手段としては永久に放棄する」と規定しています。そもそも集団的自衛権は国際紛争を解決する手段以外の何物でもありません。
閣 議決定が行われた直後の今年の7月3日、別の件で取材にきた記者の人に「集団的自衛権の容認は明確な憲法違反なので、提訴することによって三権分立の中で 解決することができる」と話をしたら、それが新聞記事となりました。このような活動は労働組合系の人たちなどが組織的に運動することが多いんですが、私はまったく色がない人間で、もともとこういう活動が大嫌いなんです。国の問題は国民が動いてやっていかなければ、と思いますので、一般の市民の方々や普通の お母さんやおじちゃん、おばちゃんが集まって、松阪を拠点にして「ピースウイング」という集まりをつくりました。

■自民党らしさを失っているような気がする

【塩田】閣議決定の無効確認の訴訟に向けてどんな活動を。
【山中】ピースウイングで数回、集会を行い、トータルでこれまで3000人を超える方々が集まってくれました。小さい形ですが、講演会や勉強会もやっていま す。原告団の結集も進んでおり、1000人規模になってきました。憲法学者で改憲派の小林節さん(慶大名誉教授)、護憲派の樋口陽一さん(東北大名誉教 授)は2人とも大学時代の恩師ですが、一緒にやる話になっています。他に資格試験予備校の伊藤塾塾長で弁護士の伊藤真さんも、集団提訴で連携してくれるこ とになっています。
【塩田】閣議決定そのものの無効を訴える裁判を起こす計画ですか。
【山中】もちろんです。国民にとって、 平和の中で生きる「当たり前の幸せ」を享受するための平和的生存権は、政府の憲法違反の閣議決定によって侵されるということで、国民生活の現実と未来の現 実的利益に関わる大きな憲法案件であると確信しています。ただ、日本の裁判制度では、提訴には実際の訴えの利益が求められます。憲法裁判所の制度があるド イツや韓国では、単なる抽象的利益だけで裁判を起こすことができますが、逆に裁判は厳格な要件でしかできないといった高いハードルがあります。逆に日本で は、訴えの利益さえあれば、地方裁判所でも憲法裁判ができて、憲法に関わる判例を明確に出すことができるという特徴があります。ただ、一番の問題は入り口 論ですね。
【塩田】門前払いにならないかどうか。
【山中】そうなんです。ですが、入り口論さえ突破すれば、今回はおそらく従 来の統治行為論では排除できないと思います。明確に明文規定に違反しているので、入り口論を乗り越えれば、それなりの判決が出て、歯止めが利くでしょう。 憲法上、保障されている平和的生存権が侵害されていることを明らかにして、平和的生存権を具体的権利として明確化していくのが訴えの利益を構築していくプ ロセスかなと思っています。
【塩田】安倍被告は2014年12月に総選挙を実施し、再び与党で全議席の3分の2を超える議席を獲得しましたが、「安倍政治」をどう見ていますか。
【山中】一番の問題は、安倍被告が本当に現場の「現実」を見ていないところだと思います。政策や法律、現場の実態について勉強不足という印象です。権力の暴走 という問題もありますが、それ以上に、「現場」の幸せよりも自分の価値観を推し進めることが正しいと思い込んでいることが問題です。本当の国民の意向、政 治の組織や財政の問題点、国家のビジョンを、現場を踏まえて見極める必要があります。
自分の価値観以外の他の価値観への寛容性を欠いているのが、いまの自民党政権の大きな問題点です。経済政策も防衛論も憲法問題も、国民をベースにしたものではなく、空中の机上の議論になってしまっている。本 来の地域を軸にした自民党らしさを失っているような気がします。安倍被告には、言っても無理だろうなと思いますが、謙虚に、現場に対して寛容に見る目を持ってもらいたいですね。

■途上国の問題、世界の平和に関わる

【塩田】今回、「市長辞任」の意向のようですが、もともと「市長は2期8年まで」と明言していました。在任中に仕上げなければと考えているのはどんな点ですか。
【山中】今回の市長辞職表明の前から、2期8年で市長は辞めます、とはっきり言ってきました。2期以上やると、市長という職責にしがらみが強くなります。2期以上行うことで、自分自身が行ってきた市政への自己批判をすることも難しくなると考えています。
私が嫌われていても、10年後、20年後に市民が松阪市の土台をちゃんとつくり上げる松阪市ができればいいと思っています。先に述べたような行政を一貫して やってきましたので、私が市長でなくなっても、住民の「役割と責任」による街づくりができる。そのシステムが重要です。市長が誰であったとしても「市民の 声」で街づくりが進む、いままでもやってきましたが、残りの任期でそれを街の土台として残るように緊張感を持って積み上げていきます。
【塩田】辞職後に松阪市長に再選しても、残り任期は在任特例により、2年という形になります。市長再選を果たし、任期を終えてそこで市長の職を離れたとしても、2年後はまだ41歳という若さです。その後の人生をどう描いていますか。
【山中】もともと「地球の裏側の現実」に対して一生涯を懸けてアプローチしてきたというのが自分の原点です。市長の仕事もそうですが、多くの人々の想像力が働 きにくい人たち、痛みが大きい人たちにアプローチするのが政治の役割だと思います。これからも多数派の人々の価値観から遠い立場にある人たち、社会の中で 自分の価値観が一番及びそうにない人たちに想像力を働かせ、現場に寄り添って、しっかりアプローチするのが自分の役割だと思っています。
市長の後に何をやるかについては、実ははっきりと方向性を持っています。途上国の問題や世界の平和に関わることなど、現場の痛みに寄り添い続ける仕事をやり たい。世界の国々にも日本国内にも、さまざまな痛みが生まれている「現実」があります。市長を辞めた後は、こういう世界のさまざまな現実に向き合う中で活動したいと思っています。
それともう一つ、なかなか進まない大震災の被災地復興の現実に対しても、行政に関わったり、復興の進展など、人の痛みに対して関わりたいという思いもあります。自分が生かされている立場でできることを、「現場の痛みに寄り添う」という原点のもとで行動し続けていきた いと思っています。
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山中光茂(やまなか・みつしげ)
三重県松阪市長
1976(昭 和51)年1月、三重県松阪市生まれ(現在、38歳)。私立三重高校から慶応義塾大学法学部法律学科へ。98年に卒業し、その年に群馬大学医学部医学科に 学士編入学。途中、群馬大学医学部公衆衛生学教室に非常勤で勤務。03年に群馬大学医学部を卒業し、松下政経塾に入塾。04年にNPO法人「少年ケニアの 友」の医療担当専門員となり、ケニアでエイズ・プロジェクトを立ち上げる。帰国後、民主党三重県連事務局勤務、衆議院議員秘書を経て、07年に三重県議に 当選。09年2月に松阪市長に就任。13年1月に市長に再選し、現在2期目。10年の第5回マニフェスト大賞でグランプリ(首長の部)受賞。著書は『巻き 込み型リーダーの改革』(日経BP社刊)など。
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(ノンフィクション作家 塩田潮=文 尾崎三朗=撮影)