2015年6月19日金曜日

「必要流通量以上に出されたお札というのは、本物でも偽札なんじゃないか」(竹内好)

 「必要流通量以上に出されたお札というのは、本物でも偽札なんじゃないか」

 この言葉を語ったのは竹内好という思想家である。
 この彼の言葉には様々な問題点はある。しかし、この言葉の持つ意味は極めて鋭いものがある。最近の政治家と称する者たちは、自身の権力の行使を許す代わりに従うべき言葉である憲法第99条「日本国憲法擁護義務」を忘れ、我田引水のように子供のような振る舞いを見せる。

 この憲法の最高法規性を確保するために天皇(皇族やその遠類も含める)をはじめ国務大臣,国会議員,裁判官その他の公務員に憲法を尊重し擁護する義務を課している。守って当然のことなのだが、残念なことに最近の「総理大臣」はそのことを平然と忘れ、己の危険な妄想を政治に盛り込んでアジアを恐怖のどん底に追い込んでいる。
 偽物と本物を見抜く目は、左右双方で異なる。それ故に、私は右派からも学ぶ。もともと私は共産党がきっかけで政治に興味を持つようになった。だが、いろいろな読書や経験を積み重ね、右派でもまともな人がいると知ってから、双方を学ぶようにしてきた。そこができるか否かが、ネトウヨや最近過激化している一部のカウンターとの違いなのである。
  私が最近過激化している一部のカウンターから少し距離を置いているのは、「憎悪の先にあるのは何か」を考えた結果だ。当然、私は偽物であるレイシストは馬鹿だと思っているので相手にしないしその必要もない。マーフィーの法則でいう、「〈議論の法則〉バカとは言い争うな。はたからは、どっちがバカか区別できない。」を実践するだけに過ぎない。
 相手にしても何も得られるものがないとわかれば相手にする必要はないのだ。批判にあるのは相手に対する敬意と愛情なのだが、誹謗中傷には相手に対する憎悪といちゃもんしかない。それなら後者を相手にする必要はないのだ。