2015年6月22日月曜日

『暴君の治下の臣民は、たいていは暴君よりもさらに暴である。暴君の暴政は、しばしば臣民の欲望を満たせない。例えば、提督はキリストを釈放しようとしたのに、人々は逆に彼を十字架に掛けることを要求した』(魯迅)

『暴君の治下の臣民は、たいていは暴君よりもさらに暴である。暴君の暴政は、しばしば臣民の欲望を満たせない。例えば、提督はキリストを釈放しようとしたのに、人々は逆に彼を十字架に掛けることを要求した』
「暴君の臣民は、暴政が他人の頭上にだけ振るわれるのを願い、彼はそれを見物して面白がる。「残酷」を娯楽とし「他人の苦しみ」を賞玩し、慰安にする」魯迅随感録六十五『暴君の臣民』


 この言葉は、魯迅の言葉で知られる。
 この言葉は今の日本をズバッと射抜いているのではないか。日本人が精神的な奴隷に成り下がっていることを、魯迅はある意味見抜いていたのではないか。この精神的な奴隷の起源は、江戸時代の鎖国政策にある。
 出島にオランダ人を押し込め、他国は排除し、キリスト教まで排除する。その監視のために五人組制度を悪用した。この制度は人と人の絆という温かみもあるのだが、同時に人の思想を介入する危険な一面もあった。
 今の日本は開国しているとはいえない。でなければ、ネットで堂々とありえないようなヘイトスピーチがまかり通らないわけがない。心のなかには凄まじいまでの異端への排除の精神が根付いている。そんなことでいいのだろうか。
 暴君の奴隷はまさに、第二の暴君への近道と言ってもいい。暴君の上に暴君ができれば、その暴君は単なる奴隷になってしまう。日本はもはや国中奴隷で溢れかえる有り様である。ひきこもりは自分の下に奴隷をつくろうとネットでヘイトを吐きまくる有り様。それはまさに滑稽なもので、精神の奴隷としか言いようがない。
 奴隷になるなと私は今後も言い続けることになる。