2015年6月25日木曜日

障がい当事者の聲が届かない商業主義者 大今良時

 今回の書人両断は障碍当事者として、本当に我慢ができないところまできた。
 はっきり言ってやらねばならない。劇場版アニメ化される暴挙を見逃すわけにはいかない。やるなとは言えないが、配慮があまりにも欠けているということだ。

 この大今は「聲の形」なる漫画でブレイクしている。この作品は難聴当事者の少女とかつて彼女をいじめた少年の心の触れ合いを描いているそうだが、連載当初から難聴当事者の現実を無視した過酷な設定や現状の無視など深刻な問題を持っていた。私はそのことによる負の影響をここで何度も厳しく指摘してきた。
 だが、驚くべきことに大今はこの作品の構想に7年かけたといっている。それならば、取り上げるべき事はたくさんあったはずだ。たとえば人工内耳。1994年に保険が下りるようになっている。その現状をきちんと取り上げるべきだったのではないか。
 だが、大今はそれでも「取材」していたらしい。

綿密な取材から生まれるリアルな作品世界

――大今先生は取材マニアだと、『このマンガがすごい!2015』本誌に掲載されているインタビューでおっしゃっていましたが、小学校にも取材に行かれたんですか?
大今 行きましたよ。小学生の時にお世話になった先生が、教頭先生になってました。
――水かけたりしてないですよね?
大今 してないです(笑)
担当 教室の壁に何が貼ってあるかとか、細かく取材されてましたよ。
 http://konomanga.jp/interview/17698-2/2

 この言葉の軽さにはただただ、私は絶句した。
 18歳の時にこの作品を考えて7年かけた割には取材能力が全くないと私は指摘せざるを得ない。私は大学時代にアイヌ民族を取り上げるメディアの問題を4年間かけて卒業論文にした(中学3年の時から読書感想文などで取り上げてきたのだが)。その際には金田一京助の「アイヌの研究」の古本を実際購入するなどした。それぐらいの努力はあって当然なのに、大今は明らかに努力不足と言わざるを得ない。明らかにリアルではなく、所詮ファンタジーの延長線に終わっている。
 これで何が取材したといえるのか。論外と指摘せざるを得ない。昭和天皇のドキュメントを『ミカドの肖像』なる屑本で「書いた」猪瀬直樹に対して、極右から命を狙われながら力作「ドキュメント昭和天皇」を綿密な取材で描いた作家の田中伸尚氏は「皇居のまわりをいくらジョギングしたところで、皇居の中が見える筈がない」と痛烈に猪瀬のジャンクブックを完膚なきまでに論破したが、大今にもその言葉がズバリあてはまる。
 少女の過酷な設定はいわば作品を煽るための道具であり、それは難聴当事者への差別にもつながりかねない危険性が極めて高い。要は商業主義の壁を越えられない、越えようとしていないだけである。講談社はこのことの危険性を全く認識できていない。そんなことでは、難聴当事者の声なんて伝わるわけがないし、伝わるとは思えない。
 リアルではない、頭の中のお花畑の世界観に終わっているのは明らかだ。それでは障がい者にとってはいいわけがない。

 私が大今を批判せざるを得ないのは私自身が障がい当事者であること、そのほかにも身内に難聴当事者がいて、結婚もしていた(配偶者は病死しているが)、今でも後期高齢者になっても仕事をしていることからにある。
 大今の頭の中での障がい者像が「これだけしかない」と変に独り歩きしているとしか言いようがないのである。大今は障がい当事者の働く姿もきちんと見るべきではないか。ただ単に「理髪師」だけに進路を固めているが、それ以外の人もいることも配慮に入れるべきではないか。障碍者雇用で日本トップクラスのIT大手企業「アイエスエフネット」の現実を見ていないのは明らかだ。
 この作品はもう一つの深刻なゆがみをもたらしている。2ちゃんねるなる腐れ果てたヘイトスペースでの「つんぼ」なる難聴当事者への侮辱の言葉がはびこる実態だ。そのことに対して大今は何も感じていないのだろうか。言葉を発するだけ、それだけの責任がある。作家の筒井康隆氏はそのことの怖さを知っていた。大今は筒井氏の爪の垢も煎じて飲むべきだったのではないか。
 「聲の形」の本質は、難聴をドラマの煽りの道具にしか使っていないのに過ぎない。そういうやり方では障がい当事者の聲は全く届かない。私の知り合いの社会福祉士はこの話を聞いてあきれていたが同感である。
 また、手話がブームになっても、それが継続されなければ意味はない。深く突っ込んでいうなら、難聴当事者の抱える問題は何かを考え、解決するには何が必要かを考えない限り意味はない。そういう意味で田中氏の指摘は大今を厳しく射抜いている。