2015年8月7日金曜日

「1人でも戦争に反対しろ」 大本営作戦部長、親族に(中日新聞社)

2015年6月22日 中日新聞朝刊
 

「1人でも戦争に反対しろ」 大本営作戦部長、親族に



 太平洋戦争の終結を受け、一九四五(昭和二十)年九月二日、東京湾に停泊した米戦艦ミズーリ号上で行われた降伏文書調印式。大本営陸軍部の最後の 作戦部長としてこの場に随行した宮崎周一中将=長野県飯山市出身=が、その一週間ほど前に同県内の親族を訪ね、「たった一人になっても戦争には反対しなさ い」という言葉を残していたことが分かった。宮崎中将のいとこの娘にあたる同県飯田市の西村節さん(77)が、中将の回想記を保管していることを明かすと ともに、当時の様子を初めて語った。

◆降伏調印直前、長野に帰郷

 回想記には「終戦直後信州帰郷」と記されていた。西村さんはこれまで当時のことを親族以外には語らずにきた。多くの犠牲を出した戦争で、作戦指導 の中枢にいた宮崎中将とのかかわりが知られれば、迫害されるかもしれないと恐れたからだ。しかし、戦後七十年がたち、ようやく「おじさんの言葉を残した い」と思えるようになった。
 「よおく覚えておきなさい」。同県下條村にあった宮崎中将の叔母の家。当時七歳だった西村さんに、中将はそう話しかけた。

 ポツダム宣言受諾を知らされた八月十五日から一週間余りたった日の夕方。玄関先にいた西村さんの目に宮崎中将の姿が飛び込んできた。薄茶色のジャケット姿。持ち物は何もない。
 その晩、西村家の家族八人といろりを囲んだ宮崎中将は静かに語りだした。「戦争とは大河の濁流のようなものだ。さおを一本、二本さしても止めることはできない」。西村さんは「戦争を止めたかったんだと思う。でも、一人二人じゃどうしようもなかったんだろう」と振り返る。
 さらに言葉は続いた。「これからは真っすぐを見て、生きなさい。誤りに気づいたら、その場で直しなさい。戦争がまた起きそうなことがあったら、自分一人になっても反対しなさい」
 別れの杯も交わした。「おじさんは調印式後に自決しようと考えていたんじゃないかな」と幼心に思えた。
 「私に関するものはすべて燃やせ」。宮崎中将はそう言って、翌日には家を出た。西村さんは叔母と一緒に、アルバムから大好きなおじさんが写った写真を剥がし、手紙と一緒に燃やした。今は五枚ほどの写真だけが手元に残る。
 調印式後、宮崎中将は武装解除や日本兵らの復員業務に従事。その後は時折、講演などはしたが、定職には就かなかった。親族の別の女性は「多くの部下を亡くしたからだろう。『私の人生は戦争と一緒に終わった』と言っていた」と話す。
 戦後七十年の今、国会では安全保障関連法案の審議が続く。特定秘密保護法制定など、この数年のめまぐるしい変化は、西村さんの目には「濁流が起こ る兆候なんじゃないか」と映る。もし、おじさんが生きていたらなんて言うだろう…。幼い自分に何度も言い聞かせてくれた言葉が頭に浮かぶ。「よおく考えな さい」
(飯田支局・西川正志)
 <宮崎周一(みやざき・しゅういち)>1895~1969年。長野県下條村出身の両親のもとに生まれる。1913年に陸軍士官学校に合格。29年 に参謀本部の外国戦史課に勤務し、戦史研究などに携わった。44年10月に陸軍中将に昇進。同年12月から終戦まで大本営陸軍部作戦部長を務め、45年9 月2日に米戦艦ミズーリ号上で行われた降伏文書調印式に随行した。

 この言葉を、安倍被告は噛みしめるべきだろう。
 当然、戦争大好きなネトウヨどもも、噛みしめるべきだ。
 日本がアジアと和解したのは、日本国憲法があったからに他ならない。
 それを破壊しようという動きには、断固として否の声を上げる。
 恥を知るべきだ。
 あなた方は国の奴隷になりたいのか。
 宮崎さんの言葉を思い知れと言いたい。