2017年2月28日火曜日

危険ドラッグ化する社会:刺激を求めて現実を見ない危険性

 講談社の「週刊少年マガジン」で連載されていた「聲の形」批判から、最近のメディアの危険性を私は何度も指摘してきた。
 連載開始から性的な暴走の傾向が伺えると警鐘を鳴らしてきた流石景の『ドメスティックな彼女』に至っては少年誌でありながらあからさまな性交を袋とじながら2016年11月16日に販売された51号で掲載するなど暴挙を繰り返している。この作品の本質はあくまでも青年誌向けなのであり、明らかに危険としか言いようがない。
 世間では危険ドラッグを危険視している。まさに脱法ドラッグなのは言うまでに及ばず、私も同感なのだが、同じような危険な実態になりつつあるのが今の私達の社会そのものなのだ。ヘイトスピーチも、加害者にとっては刺激を求めているのにすぎないのではないか。今の世間が気に食わないから、成功したマイノリティへの悪口を言うことで自らのうっぷんを晴らしているのにすぎない。
 だが、そんなやり方はおかしいのは言うまでもない。とあるレイシストは「中国人が日本の紙おむつを買った」とばかみたいに騒いでいるが、それなら中国に自ら乗り込んで紙おむつを製造する会社を立ち上げて売ればいいまでの話だ。そんな単純でわかりやすいやり方があるのにもかかわらず、レイシストどもは「僕にはデキッコナーイ」の連発だ。実に惨めで馬鹿げた醜態ではないか。
 「聲の形」でビビっているようでは話にならない。最近では堂々と『少年マガジン』に性行為を堂々と描く流石のような輩がいるのだから驚く。刺激を追いかけてその結果が危険ドラッグなのは明らかだ。まさに、社会が危険ドラッグ化していると言わずしてなんというべきか。このままでは、「危険ドラック」の合法化を主張する人間が出てきてもおかしくない時代になってしまう。

 またヘイトスピーチに対して、最近危惧すべきはそのカウンターの手段を選ばぬ強引さだ。
 彼らはネットの奴隷にまで成り下がっていることを知らない。そして、深刻なまでの泥仕合になってしまっている。 精神科医でもないのに、発達障がい当事者でも精神障がい当事者でもないもしくはその家族でもないのに勝手に認定する言動となるともう重症だ。
 それがまともといえるのだろうか。もちろん、そこまでひどいヘイトを吐くレイシストどもの罪は重い。だが、カウンターもこんな手段を選ばないやり方はいいとは思えない。憎悪がまさに新たな憎悪を呼び、最悪の遺恨を招きかねない。
 理を以って批判するのが本当の民主主義を体現するやり方だ。レイシストどもを懲らしめるにはただひとつ。そのブログの運営権を没収すること以外にない。そのためには私は民主主義とは何かを今、真剣に考えている。
 その中でほんとうに有り難い人達がいる。苦言を呈する人がいるということは、まだ私は「君は成長することが出来るんだよ」と言われているのだと。そう思うことに今はしている。