2013年9月22日日曜日

悪意無き悪意ほど始末に負えないものはない

 今回はいじめ加害者の心理を私のできる範囲で解析したい。
 これが加害者心理だというならまだほんの末端にすぎないのである。



2013年03月17日
悪意無き偽善を問う
 AKBの某メンバーの合コン・お泊り騒動に関してははっきり言って興味がない。
 彼女たちの芸に果たして売るだけの芸はあるのか?単に物珍しさだけが続いているだけだ。そのことに気が付かないネウヨには思わず失笑した。サムスンの商品をボイコットするとネウヨ達は言うが、問題はその中身だ。
 たとえばパナソニックの商品はどこがいいのか?NTTドコモだって馬鹿じゃない、多くのテストを重ねてギャラクシーSの採用を決めたのにすぎない。そのことにも気が付かないのはある意味、悪意無き偽善である。だが、これは誰にもこうしたことが起こり得る事なのだ。
 たとえば筒井康隆氏と日本てんかん協会の紛争はその典型例だった。「無人警察」という筒井氏のSSを角川書店が教科書に掲載したのだが内容に一部てんかん当事者を侮辱するような書き込みがあったとしててんかん協会が教科書の回収と過去の作品の回収を求めたのだ。
 私は教科書に載せた事には大いに問題があると思う。載せる際にはてんかんなどの見えない障がいに関してきちんと教えるべきだと考える。だが、過去の作品にまで回収を求めるのは言語道断ではないか。その結果筒井氏の断筆宣言となり結果としててんかん協会への不理解につながったのだ。その結果は、てんかん当事者による交通事故に対するヘイトスピーチになったではないか。
 さらに踏み込んでいうなら、差別用語に関して「使わさなければいい」という目先の対策に終始するマスコミだ。そうして差別の醜い実態をひた隠しして、ごまかし続ける。そして事なかれ主義により何もかもなあまあになってしまう。
 私はネウヨに対しては「いかなるヘイトスピーチは許さない」という当然の思想ゆえに戦うが、汚れたものにふたをするかのような言論は納得できない。だが、何気なく発したセリフで傷ついたとすれば詫びるべきは詫びる姿勢だ。それでも言われた方は納得できない。
 普通の雑談の中で傷ついたというのなら、私は何もコミュニケーションが取れなくなる。そこで、私が考えたのがパソコンに向かって作業するという特性を生かしたアイデアだ。ヒーリング系の音楽をUSBメモリーにぶち込んで、それを聞き続けるという簡単なことだ。そうすることでコミュニケーションで気遣う必要はない。

 皆さんはどういう考えであろうか。このことを考えて向き合うべきだ。

この記事へのコメント
そうですね、「ただ差別語を使わさなければいい」という、マスコミや出版社の姿勢は、それでいいのかどうなのかと言われれば、それは、マスコミや出版社としては「おおむね」自分の役割を果たしているのではないかと、言わざるを得ませんで、その中には「看護師」とか「客室乗務員」というような、「なにもそこまで」的な、やり過ぎ考え過ぎの部分も、含まれるわけですが、というのはこの問題は本質的には「日本社会の問題」に帰するというふうに、私は考えているからです。
差別発言についての本質的な日本社会の問題とは何かといえば、それは「貧困なる人権教育」と「人権に関していうならばまことに貧困なる法体系」であろうと思います。
そうしますと、これらを担うべきなのは本来は国家であり、つまりは最終的には立法府なのであり、また、行政府も相応の責任を免れないことでしょう。
ですが、政治家を選んでいるのは国民であり、さまざまに政治参加をしたり、意見表明をすることがおおむね可能な社会において、「政治家が悪いせい」とか、「役人が悪いせい」というふうにして、国民が責任を免れ得るかというと、もちろんそうではありません。
世論を形成するのは国民であり、このような貧困なレベルの「人権小国」であり続けることをよしとする、またはそれに疑問を抱かないという、国民の民度の問題であるということは間違いありません。
日本の人権意識が低いことの原因はいろいろありますが、欧米と比べた場合には、大きくいえば2つであって、宗教の関与の度合い、もうひとつは「与えられた人権」であるからということがいえます。
自分が「人権」を持っているということをおぼろげに知っていたとしても、それが「戦って勝ち取った人権」ではない場合には、それを維持したり、研鑚するということに対して、人は努力をしなくなります。
宗教的な背景については、おおむね(現在の韓国を除いては)東アジア全般にいえることですが、キリスト教の影響が少ないという意味あいにおいてです。
あえてもうひとついえば、日本政府がこれまで認識してきたように、「日本では激しい人種差別というものが発生しにくい人口構成にあるから」というのがあります。
右を向いても左を向いてもほとんどが「黄色人種」しかいないから、自分の国には「差別」の問題はそんなに起こらない、起こるはずがない、というふうに、「自認している」ということです。
ですが実際には、民族差別・部落差別・アイヌ差別などの「黄色人種間の激しい差別」というものが存在してきたわけですが、それが黄色人種間におけるものであるために、これらについては「非黄色人種社会」主に言えば、人権意識の進んだ欧米の国々の理解は得られにくいものと言えますし、「そういう深刻な差別がある」ということについての、認識すらなかなか持ってもらえないというふうに言えるでしょう。
ですので在特会のような、およそ先進国には有り得ない「差別団体」が、何年間も存在を許され、活動を続けるという、とんでもないことになっているわけです。
在特会の存在を許しているのは、その1万2千人のサポーターではなく、基本的には「それ以外の無関心な日本人たちすべて」なのです。
これらのことはすべて、人権小国であり続けてきた日本という国のツケなのです。
そして、「ただ差別語を使わなければよい」ではなくて、「なぜ差別語を使ってはいけないのか」ということを「理解」したうえで「使わない」ようになるということが、最終的には理想の形なのであり、それは欧米並みの法整備と人権教育によってしか、もたらされないものでありましょう。
Posted by パブロン中毒 at 2013年03月17日 18:51

2013年05月16日
パブロン中毒さんからのコメント


 本記事とはあまり関係のないことで申し訳ないのですが、私ごとを、少々報告させていただきたいと思います。
 実は最近、ある英文サイトで、偶然中国人男性と知り合いまして、それから、多少の交流を、させていただいているところです。小野哲さんも、私の翻訳を通じて、彼とのやりとりをなさっておられます。
 なお、その英文サイトはどうやら、現政権与党が外国向けの世論工作として、運営しているもののようでして、それは、私が2度も書き込み禁止を食らったことや、その中国人の方も数回追い出されていることや、なぜか私や彼の過去コメントが全部削除されていることや、その他その他の、説明のつかないおかしな事象の数々からしまして、最終的に結論したところなのですが、私はどうやら、それと知らずに、そういうスピンコントロールの場所に、平気で靖国や安倍や麻生の批判を、手厳しく書いてしまっていたという、そういうことのようです。まあ、そのサイトでのおかしな出来事の詳細を書くとキリがないので、やめておきます。なお、私は2回目の出入り禁止からは、書き込みを諦めています。
 このようなサイトが、スピンコントロールの一環であるということをほとんど知られずに、平気でまかり通っているということも、非常に呆れたことであるなあと、感じます。ですが私には、それを広く知らしめる方法が、ありません。

 さて、その中国人の方との触れあいを通じて、学んだことはいろいろございますが、今も学んでいる最中ですが、彼が私を通して、日本人全体に対して行った感動的なスピーチについては、拙記事やコメント欄を、どうぞごらんいただきたいと思います。主要なものについては、和訳を施しております。
 この人は、どうやら私の思うところでは、お父さんがジャーナリストだったということでして、中国の知識人階層の、中流以上の家庭の出身者のようです。
 そういう人と付き合うには、日本人としてはいったいどういうふうにするのが最もよいのか、お互いに、よいのだろうかということは、何もわからないままに、私はひたすら手探りで、行ってきました。
 そして今のところ、「この方法がよいであろう」というものは、なんとか見つけましたが、それについてご説明したいと思います。
 この人の抱いている「中華意識」というのが、中国人全体の中で「どの程度強いのか弱いのか」ということは、私にはよくわかりませんがたぶん、「普通よりもちょっと上」くらいなのではないかなあと、いう感じです。
 なにしろ、彼らは「中華意識」というものを、文化として背負っているのであって、それが個々人によって強いか弱いかという、違いなのではなかろうかという気がします。
 そして、それを「背負っている」という人は、「中華な動機」で、行動します。
 これは、それを「背負っている」ということにおいては、中国人でなくても、たとえば北朝鮮の指導者においても、同じはずです。
 そして、われわれ日本人は、今ではほとんどそれを、「背負っていない」というふうに考えたほうがよいのであって、歴史の中では確かにそれを「背負っていた」ころもあるのですが、今では、そうではありません。「中華意識」がどういうものであるのかさえ、ほとんどの人が知りません。
 それでまあ、程度の違いはあれ、「中華な人」というのはどうやら、まずは「礼儀と敬意」というものを、一番に大切にするという、そういう人たちのようです。
 「トクか損か」ということでは、「話はつかない」のです。
 それが重要なのでして、トクな話でも、相手に敬意が欠けていると思えば、納得はしません。「尊敬が必要だ」というふうに言ってきます。
 また、中華な人というのは、こちらが礼を尽くして、約束を守っていると認識すれば、自分も礼儀を守ろうとし、決して「信頼関係」を壊そうとはしません。
 自分からそれをすれば、「自分は礼儀に欠けている」ということになってしまい、そもそもが「中華な自分は、中華でない相手よりも、礼儀作法において長けていて、格上であるはずである」という自負がありますから、そのプリンシプルが、彼らに「礼儀を失していない相手への攻撃」というものを、許さないのです。
 中華な人と付き合う際には、そのような「ルール」があるということや、それを守ってさえいれば、大きな混乱は避けられるということを、日本人は認識する必要があるでしょう。
 なお、こちらが礼を尽くしているというふうに相手に認識させ、なおかつ「朝貢しているわけではない」「対等である」というふうな姿勢を取るということは、なかなかバランスが必要な作業ですが、これについては、「何かをしてもらったら、最低でも相手がしてくれたのと同じくらいのことをしてあげる」ということです。
 「してくれた以上のことをする」でもいいのですが、それをやり過ぎたり、やり方を間違えれば、「朝貢してきている」というふうに、へつらっているというふうに取られかねません。ですが、今回のように、「こちらがすでに非礼をしているという認識がある」つまり、「日中共同声明を何度も無視している」という状態である場合には、そのようなマイナスを最初から抱えて出会っているわけですので、こちらが「してもらった以
上のことをする」をしても、やり方を間違えなければ、よいわけです。
 また、中華な相手というのは、こちらの非礼に対しては、叱責はしてきますが、それに対しては、あまり「自分は悪くないんだという言い訳」を、しないほうがよいようです。
 それよりも有効なのは、「そうです、それについては、本当にバカでした、どうしてそういうことをしてしまったんでしょう、いったいどうしたらいいんでしょう、どうしてこんなバカがいるんでしょう、隣国との付き合い方を忘れてしまったんです、やり方を教えてもらえるといいのですが」というふうにするのが、私と彼の間では、有効でした。
 これはどういうやりとりの中で出てきた答えかといいますと、麻生のインド発言に怒り狂っている彼に対し、

私「麻生はただのバカです、それに日本は中国とトラブルを起こす能力はありません」
彼「隣国との付き合いには尊敬が必要です(つまり、できないからしないのではなく、尊敬が足りなすぎることが気に入らないと言っている)」
私「上記のひたすら困りました発言」

 これで、なぜかこの件については、わりと上手くおさまったわけです。
 私は麻生の発言についても、日中共同声明の無視についても、一度も個人的に謝罪をしたことはありません。そんなことをしてもそもそも無駄ですし、それをするのが私にとって適当だというふうには、思っていないからです。
 ですが、それなのに彼は先日、「昨年の中国デモについて、日本のみなさんにお詫びしたいと思う」というコメントを、純粋に自発的に書きました。
 私が何一つ謝っていないのにです。
 彼からそのような重大な発言が出るまでには、私との間での、いろいろなやりとりを経たわけですが、彼からそのような発言をもらえたということは、「中華な相手」に対して私がやってきた方法が、それほど間違いではなかったのではないかと、そういうふうに思っています。

 日本のネトウヨボーイは、人並み以上に怖がりです。
 逆にいえば、「普通よりも感覚が鋭敏で、なおかつ無力感を感じていて、他人の悪意を重大なものと受け止めやすく、トラウマ化しやすい」という個人が、ネトウヨ化するのです。
 それらの若い男性たちは、日本の地上波TVで繰り返し放送される、「白目をむいて日の丸を焼いている中国人男性」の姿ばかりを見て、大いに恐怖を覚えます。
 「中国人」といえばもう、その姿しか思い浮かばなくなり、そして、「怖い」からこそ、「憎み返す」ということになるのです。
 彼らが「中国人は嫌いだ」という場合には、それは「中国人は怖い、何をされるかわからない、そうなったら、自分はとても対処できないだろう」を意味しています。

 本来は、「怖い」「対処できない」と思う相手に対しては、「どうやったら対処できるのか、そういう相手と上手く付き合う方法は、何か見つからないのだろうか」ということを、より、考えるべきなのです。「怖いと思っていない相手」以上に、です。

「Awesomeさんから日本のみなさんへのメッセージ」
http://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-11528399094.html
http://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-11530389329.html

 なお、私が日本語のブログをやめ、英語の活動にほぼ絞ることにしましたのには、その理由のひとつには、ある狙いがありました。
 それは、「自分が枠を広げることで、ネトウヨを相対化し、ネトウヨを小さくする」という意味あいの狙いです。
 ほとんどのネトウヨは、日本のウェブ上で、日本語のできる人を相手に、日本語でネトウヨ活動をすることしか知りません。それを当然だと思っています。ほかの発想はありません。
 アンチネトウヨの私が英語で活動をすることは、その「固定観念」を破り、「枠そのもの」を広げ、結果的に「ネトウヨの存在を小さくする」または、「自分たちがいかに小さなことしかしていないかということを認識させる」につながるのではないかと、そういう狙いもありました。
 それはまだまだ、成果を出したというふうには、とても言えません。

この記事へのコメント
さてまたこちらを少々お借りして、日韓の間に根深く横たわるヘイト感情、それを最も露骨に表現しているネトウヨへの対策について、私見を述べさせていただこうかと思います。
前述のように、私は最近、個人的に中国の方との交流をさせていただいておりますが、まだまだわかったことは少ないとはいえますが、この体験によって、日韓の間のヘイトとネトウヨについて、新たな可能性といいますか、方向性を、感じたところでございます。
可能性とか方向性が、どの程度私の思うように存在するのかとか、なっていくのかということは、また別の話ではあるのですが。
まず、認識を新たにしなければならないと思いましたのは、
①日韓の両者は、あらゆる意味において世界中で互いに最も似ているために、近親憎悪で憎みあう。
②日本と朝鮮半島の関係は、過去において、一対一の関係で衝突していたということは、最近の約60年間を除いては、存在しなかった。
という2つの事実です。
①のほうからいいますと、これは疑いようのない事実で、身体的にも、言語的にも、文化的にも、両者は世界中で最も似ていて近いわけです。近いからこそ、負けたくなくて、競争をしようとしますし、少しでも相手に優ろうとするわけです。
それで②になるわけですが、私は②こそ、最も見落とされている、本来は見落としてはならない事柄ではないのかと、思ったわけです。
日本と朝鮮半島の関係は、常に中国という、いわゆる中原に成立している国家という巨大な存在なくしては、成立していなかったのです。
日本と朝鮮半島の間だけで、親交を結んでいたとか、逆に争っていたとか、そういうことは、一度たりとも、なかったのです。
ということは、両者の関係におけるパワーバランスというものは、長い間、「中国ありき」で、よいときにも、悪いときにも、営まれていたわけです。
そして、20世紀前半からの数十年間というものは、一見して、支配ー被支配の「一対一の関係」になっていたかのようでありますが、本当のパワーバランスは、そうではありませんでした。
ロシアーソ連の脅威というものはもちろんありましたが、それは日本にとってみれば朝鮮半島に関与を続けるにあたっては、2番目に考慮すべき事項です。
日本にとっては、「その準備さえできれば、いつでも中国が朝鮮半島を取り返しに来る」というふうな圧力を、常に感じながら、朝鮮半島を支配していたというのが、たぶん本当のところです。これは逆から見れば、朝鮮の人たちは、「中国が優勢になれば、そのうちに助けに来るだろう、決して自分たちを見捨てないだろう」という、そういう期待感ということになるわけです。両者間には、そのような歴史があるからです。
ですので、その数十年間においても、日本と朝鮮半島の関係というものは、決して「一対一」であったわけではありません。
三者関係、ないしはロシアーソ連を含めれば四者関係でした。
そして、敗戦と植民地の放棄から朝鮮戦争の停戦を経て、日本と朝鮮半島の関係は、これまでの歴史の中では経験したことのないような、その意味においてのみいえば、「異様な」関係になったのです。
一見すると、アメリカが、これまでの中原国家に代わる存在になったかのようでありますが、そして今でも、そういうふうに見えているでしょうが、そこには、「文化」「アジア」という、日本と朝鮮半島の関係にとって外せない決定的なマターが、ありませんでした。
アメリカは、かつての中原国家の代わりを、韓国に対して果たすことはできていません。
できていないから、日韓の一部が憎みあっています。
もちろん私は、冊封体制が手放しで良かったとか、そういう話をしているのではありません。日本と朝鮮半島の関係における、第三国が果たすべき「機能」の話です。
つまり、ここでは話の都合上、韓国に絞りますが、日韓の関係というものは、一対一で向き合うという経験がないままに、いつのまにか「アメリカをはさんで」いるという錯覚のもとに、実際には一対一で向き合ってみたら、似ているものどうしで、けっこう憎みあっていたと、そういうことなのではないだろうかと思います。
もちろん、日本における朝鮮人蔑視が、江戸時代からあっただろうということは、いえますが、今のように激しく憎みあい、ことあれば争うという状態では、ありませんでした。
もちろん江戸時代と今の間には、植民地支配などのもろもろをはさみますが、今のようにひどくなったのは、いったい、そのせいなのでしょうか。そのせいがあるとして、ほかには重要な要因はないのでしょうか。
それは私は、中原国家が日韓の間におよぼす、文化的、軍事的な影響力だと思います。
アメリカには、文化的な影響力をおよぼす能力が、そもそもないわけです。それは当然のことです。「同じアジアの民ではないか」というふうに、モメている両者に呼びかけるということは、できないのです。また、中国は朝鮮半島から見れば、ほぼ永遠に近い時間を、親分と仰いできた相手であり、日本にとっても、「子分になりたくない」という意向を持ちつつ、文化を分けてもらって、都合よく付き合ってきた相手です。
第三国による軍事的な影響力が、あったほうがいいのかないほうがいいのかといえば、それはここでは詳しくは追求しませんが、なにしろ「これまでの歴史の中では、常にその2つ(文化的な、軍事的な)が、日韓両国に向かって、良くも悪くも重大な影響を及ぼしていて、何をするにしても、憎みあうにも、親しくするにも、それが関係した」ということです。
日韓が、ここ60年ほどを除いては、「一対一で向き合ったことがなかった」というのは、そういう意味です。
ですから歴史的に見れば、今の「タイマン」状態というのは、「異例の事態」というべきものです。それが「いい」のか「悪い」のかという評価は、ひとまず置くべきです。
たぶん、日本人のほとんどが気がつかないだけであって、中国の知識人から見れば、日韓が憎みあっている様子というのは、「ああ、ああ、やっぱりオレがいないと、こういうことになっちゃって」「オレがいないと、あいつらだけじゃ上手く行くわけがないよ」というような、そんな景色なのではないかと、思います。
中国の外交方針は、相互内政不干渉と、なおかつ友好国との間では、「遠交近攻」を決して画策しないようにするということにあるそうです。これは日中共同声明にも明記されているとおりです。
つまり、日本がインドと軍事的または経済的な協力関係を、「中国を包囲するため」に結ぶということは、容認されません。実際にはそうではなくても、麻生太郎がインドで「中国とはずっと上手く行ってない」などと言えば、中国人が激怒するのは、そのためです。
ですから、インドと仲良くしたいのであれば、「これは決して、中国を包囲するためではありません」ということを、じゅうぶんに見せつつやらなければ、ならないのです。
麻生のやったようなことは、その意味では最低最悪なのです。
そして、中国は内政不干渉なので、相手の国内状況には口を出さず、自分のところにも口出しをされたくないのです。
ですので今のところは、日韓が憎みあっていることについて、中国が間に入るということは、なかなか考えにくい状況ではあります。
ですが、最もよいのは、「一対一」ではなく、「三角関係になる」ということではないかと、私は思うようになりました。
そのもう一角は、中国でなくてはなりません。その理由は、前述したとおりです。
影響力のある第三者が三角形に加わることこそが、一対一でぶつかりあい、憎みあう力を分散し、日韓の憎みあいを、なんとかする唯一の方法なのではないかと、そういう気がしています。
私はアメリカとの軍事同盟をやめろとか、中国の傘の下に入れとか、また朝貢すればいいんじゃないかとか、そういう話をしているのではありません。
なにしろ、アメリカでは、かつての中国が及ぼした、日本と朝鮮半島の間の憎しみ合いを調停するような力を持てないということなので、それをアメリカに期待することはできない以上、昔から慣れている「中国との三角形」に持ち込むしかないのではないかと、そういう話です。
朝貢なしで、軍事同盟なしで、そして中国での反日感情が、一部の労働者などから噴出している中で、なおかつ日本のネトウヨが、中国人に対しても、朝鮮人に対するほどではないにしてもかなり憎み始めている中で、なんとか「三角形」を、作れないものだろうかと、思うのです。
中国は、日本の10倍の人口があり、20倍の面積があり、朝鮮半島の人口のおよそ20倍くらいの人口があり、そして、それだけの人数がいれば、知識人階級の人たちと、デモをする労働者の人たちは、まるで別物のように違います。違うはずです。
上海などの発達した都市部と、農村部では、生活が全く違います。
日本でも、ネトウヨと、インテリでは、別物なのですが、たぶん日本のネトウヨとインテり以上のスケールで、彼らの階層間には、差があるようです。
もともと中国は、農民、官僚、王皇族という階級社会でしたが、そして、「そもそも上と下の間に中間組織がない」ということが、今に至る問題であるようですが、それは近現代の日本の場合には、中間組織が常にあった、あるわけで、しかし今はけっこうそれが崩壊しかけていますが、なにしろ上と下との差が、日本以上にとてもあり、なおかつスケールが大きいということです。
そして、私が交流をしているような、インテリ層の人というのは、母国語でなくても英語を自由に操り、政府の基本方針を正確に理解・把握していて、外国人と話をする際には、決して政府の方針から外れたり、国益を損ねる発言をしません。中国の歴史はもちろんですが、有職故実にもある程度通じていなければならず、同じアジアの漢字圏である日本人との会話では、それらを引っ張り出して、「自分はちゃんとした中国人であって、その文化を身に着けていますよ」ということを、アピールします。たぶん、そうせずにはいられないのでしょう。
西洋人に対しては、彼はそういうことをしません。どうせ漢字も読めないからしても無駄だということと、「する必要を感じない」のでしょう。
アジア人に対しては、特に日韓のどちらかに対しては、「自分はまっとうな中華の人間である」ということを、アイデンティファイせずにはいられないのです。
国家の形態や、国が採用している主義思想などによって、3000年間存在した「それ」が、彼らからすっかり失われるというわけがないのです。良し悪しは別としてです。
なおかつ、「自分ひとりでも中華」なので、外国人が礼儀正しくしていれば、ある時点で「お返し・または褒美」を与えることもします。
ですから、このような人であれば、たとえば、私と韓国人の誰かが憎みあい、モメていたとしたならば、必ず間に入って、いつも彼が言うように、「同じアジア人ではないか」「日中韓は、真の意味で融合しなければならない」というふうに、とても鷹揚に、「中華らしく」仲裁をするはずだと思うのです。問題はそれが、「国と国レベル」でも行えるのかどうかと、いうことなのだろうと思います。
Posted by パブロン中毒 at 2013年05月20日 21:17