2013年10月26日土曜日

戦う書評-その2-

2012年04月01日
クマのプーさんと学ぶマネジメント
 今回の書評はあの「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」よりも早く出ていて、実に読みやすい内容だったのでここに書こうと思う。
 「クマのプーさんと学ぶマネジメント―とても重要なクマとその仲間たちが、とても重要なことを初めて体験するお話」ロジャー・E. アレン著、新田 義則訳である。この本には以下のキーワードがある。

冒険物語・マネジメント・意思伝達
測定と分析・目標設定・組織化
動機づけ・正しい判断・経験から導かれ
重要な仕事・努力を集中すべき・予定を変えたりしない
スタートするのに早すぎるということはない・明確かつ完全・経験

6つの機能
1:ハチミツをとること
2:組織の真の目的や使命はなにか?
3:なにかしたいと思わせる理由
4:物事をやり遂げるのがマネジャーの仕事
5:相手に理解されたかを確認
6:その人のできばえを測定

 その中でドラッガーの「マネジメント」などを織り込んでおり、実に分かりやすかった。だが、忘れないでほしいのは勝間和代のように何のために出世するのか分からないままただ野放図に勉強し、手段としてしか使わない動きである。勝間の暴論は香山リカ氏に完膚なきまで論破されている。なぜ、こうしたことは必要なのかを問いかけながら読んでいくとこの本の意味は深く読めてくる。その点に用心して、一読をお勧めする。

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%81%AE%E3%83%97%E3%83%BC%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%A8%E5%AD%A6%E3%81%B6%E3%83%9E%E3%83%8D%E3%82%B8%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E2%80%95%E3%81%A8%E3%81%A6%E3%82%82%E9%87%8D%E8%A6%81%E3%81%AA%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%BB%B2%E9%96%93%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%8C%E3%80%81%E3%81%A8%E3%81%A6%E3%82%82%E9%87%8D%E8%A6%81%E3%81%AA%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%92%E5%88%9D%E3%82%81%E3%81%A6%E4%BD%93%E9%A8%93%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%8A%E8%A9%B1-%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BBE-%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%B3/dp/4478350493

2012年04月04日
新聞再生
 今回の書評は「新聞再生―コミュニティからの挑戦」畑仲哲雄 (著)を取り上げる。

「新聞の危機」が唱えられて久しい。しかし巷で議論されているそれは、たんに「新聞業界の危機」に過ぎないのではないか?大手紙の視点からは見過ごされてきた周縁的な場所、そこにこそ、「新聞なるもの」の本質と可能性が見いだされるのではないか?コミュニティからの挑戦と挫折、そして再生。地方紙の試みから新聞の可能性を探る。

 このような触れ込みで新聞の問題を取り上げている。
 この本では3社、旧鹿児島新報社と神奈川新聞社(朝日新聞社系列)、みんなの滋賀新聞(廃刊)を取り上げている。新聞の淵源をたどり「他者に開かれた社会空間としての<新聞>」「デモクラシーの苗床としての<新聞>」の重要性を著者は強調しているのだが、私はそれだけでは無理だと思う。
 最近のオリンパスの粉飾決算事件を取り上げたのはFACTAだった。また、それ以前に月刊テーミスと週刊金曜日が浜田正晴氏への不当なパワーハラスメント犯罪を取り上げている。本来こうしたことをすべきだったのは新聞だったのではないのか。せめて、浜田氏のパワハラに加担した百武某をこのように皮肉ってみろと挑発したいほどだ。

http://facta.co.jp/blog/archives/20111231001053.html

 だが、新聞は少年法も平然と踏みにじる。法令順守もへったくれもないアホどもにもはや日本中からさじを投げる人たちが増えている。あの神戸俊樹氏でも新聞を購読しなくなった。どんどん新聞は自分でその信頼の暖簾を投げ捨てているのである。イオンの名誉会長である岡田卓也氏ですらも新聞への不信感が強い(ヤオハンジャパンの経営支援を「乗っ取り」呼ばわりされたため)。
 私は堀江貴文氏に出所後、ぜひともやってほしいことがある。それはニューヨークタイムズと合弁で日本にネット新聞社を立ち上げていただき、腐った新聞を苦しめて欲しいということだ。堀江氏はメディアに散々不信感を持っているのでこれはぜひともやって欲しい。

2012年04月04日
もう一つの道
 今回の書評は「もうひとつの道 競争から共生へ」横川 和夫 (著) を取り上げる。
 連続書評コーナーもあともう少しで終わる。私は書評に関して一気にやる傾向があるが今回は所属先からもらった不要なメモを利用して感想をある程度書き込み、自分の感想をそこに書き記すことでこのコラムを完成させつつある。

第1部 シュタイナー教育に学ぶ(オーストラリアに飛ぶ
物語を語り、聞かせる
政府、州も資金援助 ほか)
第2部 保育所は大人の学校(親のがんばり、子を追いつめ
頭の線、百本キレたんや
ぼくが生まれたときの話して ほか)
第3部 競争から共生の時代へ(日本の社会福祉に貢献
家が明るくなった
子どもと人生分かちあう ほか)

 この本にこそ、ハシゲは学ぶべきだろう。
 彼のやろうとしていることは単なる競争だが、この本では学校との共存を図っている。私は以前、もう一つのFlagとして、共生主義を掲げた。その思想をこの場で再び述べたい。


共生党宣言(小野哲)
2010/08/26 20:28

 村野瀬玲奈さんの『世界愛人主義同盟』というバーチャル組織に呼応する形で、私も共生党というバーチャル組織を立ち上げる。
 今、世界を見てくると社会的にありえないほど貧富の差がある。それも拡大しており、そうした歪みへアクセルを踏む愚か者達が英雄であるかのように取り上げられている。更に、地域住民には地域によって買い物環境に大きな差がある(彼らの事を『買い物難民』という)など非常に不便な時代になっている。
 そうした事を『改革である』ともてはやした新自由主義、新保守主義へのアンチテーゼとして、社民主義がある。しかし、社民主義では国家が経済に介入する要素を残してしまう。そこで、私は共生主義という思想をここに掲げる。新自由主義が一等賞が英雄であってそれ以外は敗者であるというのに対して、共生主義は敗者にも拍手を送る姿勢である。強い相手にたじろぐ事なく戦い、ボコボコになっても諦めない姿勢を讃える思想でもある。安倍晋三が取ってつけたかの如く『再チャレンジ社会』とほざいていたが、それは新自由主義が前提の歪んだものであって、共生主義とは明確に異なる。
 更に、共生主義は独善そのものの自己中心の思想とも一線を画す。事実をきちんと見据えソリッドに考えることも共生主義へとつながる。私の思想は少数派である事は承知だが、恐れるつもりはない。国際法、日本国憲法に沿って今回の宣言となす。少数派だからこそ、見える視点があるのだ。
 共生党宣言は、公共の福祉を更に改善した思想である。本来負担できるのに関わらず金の力で責任を免れる愚か者には公共の福祉で厳しく規制するが、真っ当な権利の行使には応じるのがこの思想である。犯罪の自由は断じて認めないのがこの思想である。ルールある社会、ルールある経済はこの公共の福祉に沿ったものである。
 なお、国際人権宣言を下敷きに共生党宣言とさせていただく。

共生党宣言 前文
 地球社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利を承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎である。
 また人権の無視及び軽侮、特定の階層による強欲が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為及び貧困をもたらしたのに対し、言論及び信仰の自由及び人並みの生活と安全が保証され、恐怖及び貧困なき世界の到来が、一般の人々の最高かつ究極の願望である。
 人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには、法の支配による人権保護が絶対的基本である。
 諸国間の友好関係の発展を促進することは全ての平和への実現の近道である。
 いま、ここに国際人権宣言に従い、共生党宣言となす。国際連合によって決議された諸条約と日本国憲法により、共生党は基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の同権についての信念を再確認し、かつ、一層大きな自由のうちで社会的進歩と生活水準の向上を促進する。

第一条 全ての人間は、生を受けた時から自由であり、尊厳と権利は平等である。また、公平・公正の思想に従い金銭の多少及び権力への接近度を問わず機会は平等でなければならない。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
第二条 国際人権宣言第二条に沿い、この地球社会に所属する全ての人に普遍性ある人権及び自由を共生主義は支持する。よって、左右問わずいかなる独裁には厳しく反対すると同時に正統な立場から独裁に立ち向かい普遍的な人権及び自由の獲得を目指す思想に賛同する。
第三条 国際人権宣言第三条に沿い、普遍性ある人権には生命・自由・身体の安全にたいする権利を含める。よって、身柄確保は法令なくして出来ない。また、暴力などの不当な嫌がらせには法令に沿った断固とした措置を要求する。
第四条 国際人権宣言第四条に沿い、いかなる奴隷制度及びその売買、また事実上搾取を伴う労働及び諸契約は全て禁止・無効である。また、それらの復活を目論む者、それにより不当な利益を得た者には法令により毅然とした措置を要求する。
第五条 国際人権宣言第五条により何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは屈辱的な取扱若しくは刑罰を受けることはない事を共生主義も支持する。共生主義は刑罰の実効性からも顧み、死刑制度に反対する。
第六条 法定民主主義は国家構成の最低限の必須条件である。それらにより構成された法令の下において以下の権利を有する。
1 法の下で平等であり、平等な法による保護を受ける権利。
2 国際人権宣言に違反する全ての差別及びその示唆行為の結果権利を不当に受けられない人が権利を要求し、実現する権利。
3 憲法又は法律によって与えられた基本的権利を侵害する行為に対し、権限を有する国内裁判所による効果的な救済を速やかに受ける権利。
第七条 身体拘束に対し、国家機関は正当な手続き及び証拠の提示と、被疑者の権利を保障する義務を担う。また、国民は以下の権利を有する。
1 正当な手続きを経ないまま逮捕、拘禁、又は追放されない権利。
2 刑事裁判による刑事責任が決定されるまでは推定無罪として扱われる権利。犯罪が行われた際に適用される刑罰を超えた重刑罰を拒絶する権利。
3 被疑者には弁護士を取調べの際に立ち会わせる権利がある。また、不当な取扱を拒絶する権利を有する。
第八条 共生主義ではいかなる人への私事、家族、家庭または通信等の内省干渉及び名誉・信用への不当な攻撃を行わない。だが、権利の不当な乱用及び社会全体の秩序の観点からこれらは保証されないこともありうる。
第九条 共生主義では法令により、居住・移転・移民権を保障する。共存・共生の思想が原則である。

 なお、共生党宣言は今後も随時加筆され、時代と共に進化する。

共生主義を私が打ち出した理由(小野哲)
テーマ:ブログ
2011-02-21 13:40:27
 今回は井上静氏のブログから引用する。

共産党の破滅的実態
2011年 01月 25日
 政権交代したのは良かったが、国民より大企業になびき増税などと、ちっとも自民と変わらない民主党にはガッカリしたが、もちろん自民に逆戻りはゴメンという人が少なくない。
 しかし、そんな国民から支持を取り付けられない共産党について述べたことがある。
 例えば、投票依頼の電話かけで、若い党員の男性が、自分はろくにかけもせず、ボランティアの非党員でずっと年上の人が、たくさんかけて一息いれていたら「オイ、休まないでかけろ」と威張って命令した話など。
 その呆れた男は、他にも社会常識の無さを露呈させたことがある。
 機関誌「赤旗」の配達員が足りなくて困っていたとき、それならばと名乗りをあげた人がいた。そして毎日朝早く、夏は薄暗く冬は真っ暗で寒い時間に、雨にも負けず、風にも風邪にも負けず、雪にも台風にも負けず、某宗教団体の嫌がらせやパトカーの弾圧にも負けず、配達しつづけ、議員や党活動家たちはとても助かっていると言っていたのだが、それにたいしてその男は軽い調子で「ごくろーさん」と言った。
 どんな仕事でも「おつかれさま」と言うもので、「ごくろうさま」でも失礼になるとマナーの本にも書いてあり、「ごくろうさん」と言っていいのは新聞を受け取る購読者(お客さま)だけだろう。
 そんな非常識な男を、共産党は選挙に立候補させた。もちろん惨敗であった。
 しかし、これは急な補欠選挙の当て馬だったから、落選しても被害は少ない。ところが、今度は現職ベテラン議員の後継者として立候補するという。かけがえのない議席である。しかも、その現職は知的で誠実な人として地元の信頼が厚い。その後継者ならそれ相当の人物であるべきだ。
 どうして交代するかというと、現職議員が健康上の理由で引退するからだが、しかし45歳の働き盛りのうえ実績からも脂がのった時期であるから、たいへん惜しまれる。それでも交代というのに、あんな人が後継者で良いのかと思う。
 これには当然、疑問の声があがっている。そして危惧したとおり、信頼厚いベテラン議員の後継者だから当選したようなものだと思っているのか、街頭で演説しているのを見た人から、もう議員先生になったと錯覚したような態度だったと言われていた。
 そして、現職ベテラン議員のサイトに後継者として紹介がされて、選挙向けに作られたブログにリンクも貼られていたのだが、面白くない。現職議員のサイトは頻繁に更新され、その度に政治経済など時事問題について参考になる内容が多かったのだが、その後継者のブログは年季の差ということを差し引いても、つまらなすぎる。
 面白くない、つまらない、だけなら仕方ないが、冒頭から後継者ですとニヤニヤした顔の写真とともに、タイトルに文字絵が使われていて、もちろん文字絵の使用が直ちに悪くはないが、しかし選挙に立候補しますよろしくお願いしますm(_ _)mではなく、OOでーすキタ━(゜∀゜)━!!だった。見ていて顔がひきつれてくるのが感じられた。
 これは笑い話のネタではなく、本当のことである。選挙運動の時だけなら、たまたまお粗末な党員がいたに過ぎない。しかし、そんな者を信頼厚いベテラン議員の後継者にしてしまうのだから、選挙が上手くいくはずがない。また落選してくれればまだいいが、間違って当選してしまったら、もっと悲惨なことになるのではないだろうか。
 ここまでひどくなくても、似たようなことが各地にあるはずだ。党勢の衰退も当然だろう。こんな情けない、政策以前のことがあるのに、「きちんと政策を掲げて熱心に選挙運動しているのに、なんで振るわないのだろうか。党名変更したほうがいいのだろうか」などと言っている姿は滑稽である。
(この文章は井上静氏のブログ『楽なログ』より引用)
http://ruhiginoue.exblog.jp/15394891/

 共産党を改善するには、党員にこだわるのではなく、思想上似ていて、人格にこだわり優れた非党員を積極的に起用して推薦候補で出す柔軟性が必要である(例えばハト派の自民党員もしくは民主党員や元自衛隊員、会社の経営者、僧侶、元警察官だってありではないか)。これでは閉鎖的としか思えない。
 井上氏が指摘しているこんな呆れた坊やは論外である。共産党はエリート優遇という点では銀行と同じである。この話を聞いて私は横田濱夫氏(横浜銀行勤務中に銀行の呆れた実態を暴露した本を書いて不当な報復として嫌がらせ左遷という名の悪質なパワーハラスメント被害を受けた)を思い出した。その横田氏はある支店でエリート行員が融資で失敗したのに本部が庇ってなかった事にした事を明らかにしている。こうした事が積み重なって、横浜銀行はイマイチ伸びないのだろう(他の銀行もだいたいこんなものだろうが)。
 私が共生主義を打ち出した理由は、社民党の独善そのものの姿勢への猛烈な反発と、堕落した共産党への危機感がある。柔軟性なくして相手は応じない。両者が問題を改善すべく、合流して『共生党』を立ち上げれば、それこそ第三の勢力としてミンシュトーやジミントー(もしくはその亜流政党)に飽き足らない人達を集結させることが出来る。共産党に必要なのは金太郎飴のような人材より、理念を大切にしながらも概念を疑い、外とも議論を恐れない異端児である。
 それを『和を乱す』と排除すれば問題は全く解決しない。同じ金太郎飴では管理は楽なこと楽だが、それはブロイラーのニワトリと同義であり、結果は鳥インフルエンザが来ればそれこそ無残な結末である。政党として堂々と異端児と議論をやるべきなのだ。机上の空論ではネオコン・ネオリベと同じでしかない。
 井上氏のエピソードを知って、私は高校時代のエピソードを思い出した。関東鉄道が取手駅ビルに列車を突っ込んでしまった事件だが、共産党の市議が関東鉄道のある駅前で堂々と関東鉄道を批判するビラをばらまいていたのでおかしいじゃないかと私はその市議に突っ掛かったのだが、その男は反省しなかった。これもあり、私は共産党と距離をとるようになった。ちなみにその男は後に飲酒運転をやらかして逮捕され、市議を辞職している(共産党は知らぬ顔の半兵衛を決め込むのだから呆れる)。
 そうした不祥事に共産党は危機感がないのだから恐ろしい。駅前で批判ビラを配布するなら関東鉄道本社に改善案を財政面からの裏付け付きで持ち込んで改善を促せば良かったのだ。そうした建設的な発想がないのだから硬直化しているのだなと私は思った。
 私のブログでは共産党も自民党も関係なく意見を発する。既存政党の垣根にこだわっていては意味はないのだ。共産党は野中広務氏、武村正義氏や堤清次氏との関係があるのだから、堂々と外に向かって議論をすればいいのだ。それでいびつなところを正せばいいのだ。そして、共産党を活性化させ、ジミントーを乗り越えなければならない。
 共産党だって岩手県陸前高田市の市長選で自民党と共闘したのだ。やればできると私は考える。決して頭は悪くないのだから、後は開放的な方向性を確実に示すことだ。

 共産党には期待しているからあえて私は厳しいことを言いたい。
 たとえば、査問制度。これは廃止して全体で議論していく活気にあふれた政党にしていってほしい。民主集中制も同様だ。共産党の理念は確かに分かるのだが、個々の事情は異なるのである。ハシゲが付け入るのはそうしたことの積み重ねである。せめて、社民党を吸収合併する度量の大きさを示して欲しい(このままでは護憲革新勢力は衰退しかねない危機感が私にはある。それは護憲保守主義にとっても危険極まりないことであり、極右の風が猛威を振るう前に手を携えるべきだ)。

2012年04月12日
カリスマ
 今回の書評は「カリスマ―中内功とダイエーの「戦後」」佐野眞一(著)である。
 この本では中内の生まれから戦争経験、ダイエー創業とそして兄弟の排除など、さまざまなドラマが展開されていく。底知れぬ「人間不信」をベースとして常に実行で示してきた狂気と恩情はフィリピン戦線の時代からだった。
 そして、大卒でないことへのコンプレックスだ。だが、それはとんでもないワンマン体制につながり、組織を腐らせるイエスマンばかり生み、経営者らしい経営者を生み出さなかった。それを指摘されても直さなかったことに中内の悲劇がある。 「戦後、神戸から出て大きくなったのは山口組とダイエーだけや」と中内が堂々と言ってのけた段階で我々はダイエーを厳しく批判すべきだった。
 私はダイエーが再建するには会社更生法しかなかったのだと思う。会社更生法による再建ではイオンによるヤオハンジャパン(現マックスバリュ東海)、マイカル(現イオンリテール)のように実績がある。ダイエーはあまりにも大きすぎて、債務も深刻だった。産業再生法による再建はモラルハザードしかなかった。その結果、ダッチロールとなって結局はイオンの支援を受けるしかなかったのである。
 だか、この本に欠けているのは中内一族とその関係者ばかりに焦点が当たっているのだが、名のないパートさんたちの熱意である。阪神大震災直後にダイエーはパートの大量解雇と短時間アルバイト化を強行して佐高信氏から批判されたが、その言い逃れにとわざわざ総務部の担当者が佐高氏を訪問したと言うのだから、お粗末もこの上ない。そのことについて何故佐野氏は書かなかったのか。
 巨怪伝で正力松太郎の闇を見事に暴いた筆力があるのだから、それぐらいはして欲しかった。

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E2%80%95%E4%B8%AD%E5%86%85%E5%8A%9F%E3%81%A8%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%80%8C%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%80%8D-%E4%BD%90%E9%87%8E-%E7%9C%9E%E4%B8%80/dp/4822241203

2012年04月12日
腐った翼
 今回の書評は「腐った翼―JAL消滅への60年」森 功 (著) である。
 この本では小説「沈まぬ太陽」のモデルになった小倉寛太郎氏を不当に誹謗中傷しているが、私から反撃させてもらうと日本航空のだらしない経営幹部を厳しく批判し正した役割は非常に大きく、その功績を認めないと言うのはいかがなものか。
 小倉氏を正しく抜擢していたら、日本航空は倒産することはなかったのだ。そのことに対する認識が甘いと言うべきだ。

http://minseikomabahongo.web.fc2.com/kikaku/99ogura.html

 前回の書評で取り上げた中内功はある知り合いから息子の就職の世話を頼まれたと言う。
 その会社こそ、日本航空である。中内は会長でダイエーのメインバンクの一つだった住友銀行の堀田正三に就職の斡旋を行った。「君で七人目だ」といいつつも堀田はその息子の入社を認めた。さらに日本エアシステムとの経営統合で巨大化した結果、組織は重症そのものになってしまった。
 そこにあるのはまたしても政治家である。あの亀井静香が設立に関わったJALの関連企業がある。警備会社「ジェイ・エス・エス」(JSS)である。亀井はJSSの設立を日航に働きかけ、「私は生みの親」と称していた。顧問として九四年四月まで報酬月十万円を受け取った。このことを亀井はあっけらかんと話すのだから驚きだ。普通だったら恥じるだろう。
 そんなものだから、責任のなすりあいは当然だろう。JAL出身の従業員が倒産の責任をJAS出身の従業員に押し付けていると言うのだから、もう重症である。

http://www.amazon.co.jp/%E8%85%90%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%BF%BC%E2%80%95JAL%E6%B6%88%E6%BB%85%E3%81%B8%E3%81%AE60%E5%B9%B4-%E6%A3%AE-%E5%8A%9F/dp/4344018494

2012年04月14日
プライバシー・ゼロ
 「プライバシー・ゼロ 社員監視時代」小林 雅一(著)はインターネットのあり方を問う力作である。
 「あなたがオフィスのパソコンから何気なく送ったメールは、すべて会社側に記録されている。デートや合コンのお誘いはもちろん、取引先との飲み会のセッティングさえ、常に監視されているのだ。言うまでもなく、それはあなたの人事査定に大きく反映するだろう。もちろん監視されているのは、メールだけではない。あなたがどのようなサイトを何時何分からどれだけの時間閲覧したか、また、どのようなソフトを何分間使ったかさえ、把握されている。つまりあなたの勤務状況は、完全に丸裸にされているのだ。当然、社員は息苦しくなり、かえって仕事の能率が落ちることさえ予測されるが、もうこの流れは止まらない。なぜなら、1度覚えた「管理」の味を、上層部が手放すことなどあり得ないからだ。「IT革命」は、こうして日本を究極の管理社会に導いていく。」という書評にあるように、この本ではインターネットが管理社会化していく実態を厳しく暴いている。
 みずほ銀行ではインターネットを使う条件に事実上の検閲を呑ませる条文を書かせている。さらにソフトバンクBBでは顧客リストが外部に出されたこともあって厳しい。さらに、スマートフォン時代になった今とんでもない監視ツールが出てきた。「カレログ」なる個人情報収集アプリだで「彼氏のスマホにインストールしておけば、いまどこにいるかわかります」ということで、サービスが開始されるや、1週間で1万ダウンロードを記録する大ヒットになったが、提供情報は位置情報ばかりではなくどんなアプリをインストールしているかや誰と通話したか、バッテリーはどれくらい残っているかなどもわかってしまう。そのため、たとえば彼氏の電話に出なかった言い訳が「バッテリーが切れていて」なんてウソは通用しなくなった。また用途を変えて、たとえば営業マンのスマホに入れれば、上司は営業マンがパチンコ屋でサボっているのがリアルタイムでわかってしまうことになった。
 これを人は究極の管理社会というのである。それを政府レベルで実現しようとしているのがあのマイナンバーなる国民総背番号制である。だが、こうしたものには凄まじいコストがかかる。悪循環に我々の血税が使われる有様だ。そうしたことで果たしていいのかを我々は考える必要がある。
 その一方で自由には大きな責任が伴う。無秩序な自由など、ないのだと言うことを改めて警告したい。

参考記事
あなたはスマホによって四六時中監視されている! キャリアIQ騒動 その1
DIGITAL DIME 1月23日(月)10時22分配信

http://www.amazon.co.jp/%E7%A4%BE%E5%93%A1%E7%9B%A3%E8%A6%96%E6%99%82%E4%BB%A3-%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E5%B0%8F%E6%9E%97-%E9%9B%85%E4%B8%80/dp/4334933602

2012年04月22日
冤罪のつくり方
 今回の書評は「「冤罪」のつくり方―大分・女子短大生殺人事件」小林 道雄 (著)である。
 この事件についてはWikipediaで詳しく載っていたのでそのまま掲載する。

みどり荘事件(みどりそうじけん)は、1981年に大分県大分市で起こった殺人事件である。発生地の地名と被害者から、大分女子短大生殺人事件とも呼ばれる。
 1981年6月27日から28日にかけて(死亡推定時間が不詳のため確定できず)、大分県大分市のアパート「みどり荘」で女子短大生(当時18歳)が殺害された。血液型B型の唾液が検出され、被害者の血液型と異なったため犯人のものとされた。
 事件から半年後の1982年1月14日に、血液型B型だった隣室の男性(当時25歳)が被疑者として逮捕された。被疑者は捜査段階や地裁公判の初期において被害者の部屋にいたことを供述していたが、裁判途中から無罪を主張。1989年3月に1審では被疑者の自白と科警研の毛髪鑑定を重視して無期懲役の有罪判決が出された。
 控訴審では事件現場の遺留品であった犯人の毛髪は直毛であり事件当時パンチパーマだった被告人と一致しないなどの鑑定書に多くの矛盾が指摘され、1994年8月に殺人事件では異例の保釈がされた。1995年6月30日には無罪判決が出され、同年7月13日に検察も上告を断念して確定した。事件発生から14年が経過していた。
 無罪判決において被告人以外による真犯人の存在が示唆されており、殺人罪(当時は15年)の公訴時効(1996年6月28日)が成立するまで約1年あり、犯人の毛髪という重要な遺留品も存在したが、捜査機関である大分県警は再捜査を一切行わなかった。

 この事件で問題なのは、DNA鑑定のずさんさだった。科学的な捜査を追及しても、犯人と直接関係がないことが明らかなのにでっち上げ立ったと言うのが恐ろしい。
 問題は、一審で無罪判決が出なかったことだ。普通、証拠から見て明らかに無罪なのに有罪と言うのはおかしい。しかも、無罪が確定したのに大分県警は一言も被告人には謝罪すらしていない。被告人は交際相手と結婚寸前だったのに棒に振らされた。この責任を大分県警は今すぐ取るべきである。
 さらに問題なのは真相の追究すらしなかったと言うことだ。要するに己らの面子ばかりにこだわった結果である。この書籍は残念ながら今は絶版状態にあるが、ぜひとも再刊を願いたい。そして思う、一刻も早く公権力の監視を行うオンブズマン機関(処罰権も当然有している)の設置がこの国に必要なのである。

http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E5%86%A4%E7%BD%AA%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%8A%E6%96%B9%E2%80%95%E5%A4%A7%E5%88%86%E3%83%BB%E5%A5%B3%E5%AD%90%E7%9F%AD%E5%A4%A7%E7%94%9F%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B0%8F%E6%9E%97-%E9%81%93%E9%9B%84/dp/4062634112

2012年07月01日
東京都庁「お役人さま」生態学
 久々の書評第二段は「東京都庁「お役人さま」生態学」を取り上げる。
 廣中克彦氏は東京都財務局、交通局、水道局、下水道局などの登録業者として長年営業してきた会社の社長で業者との癒着でいい気になっている役人たちの実態をこれでもかと暴き立てている。悪質な場合としてまったく別の経費で購入したワープロを自宅に持ち帰るケース、天下りとこれでもかと暴いている。
 私は天下りを廃止して役人を本来の審判に戻すべきだと考えている。たとえば今、関越自動車道高速バス居眠り運転事故で明らかになったようにあまりにも査察官が少ない部門が多い。そこに役人たちを回せばいいのである。また、金融関係の役人に関しては私は金融セカンドオピニオン制度で受け皿を作り金融商品のアドバイスを消費者に行なう制度を導入すべきだと考えている。
 それなのに今の天下り対策は減らすことばかり考えている。減らすのも大切だが、向かう場所を用意してそこから減らすべきなのである(そうした意味では植草一秀氏はまだ甘いとしか言いようがない)。

2012年07月01日
100万人を破滅させた大銀行の犯罪
 今回の書評は「100万人を破滅させた大銀行の犯罪」(椎名麻紗枝著)を取り上げる。
 

 これは真実だ!
恐るべき銀行の悪行の数々とそれを許した大蔵省・裁判所。
これはもはや国家の犯罪、第二の薬害エイズ事件ではないか――!
女弁護士、怒りの告発!!

 こんな帯にあるように銀行の危険な金融商品の売り抜けの実態がことごとく暴かれている。
 資産家に株取引を勧めて過剰な融資をさせて失敗したら融資の返済を要求する旧東京銀行の副支店長は「株取引は麻薬みたいなもんだよ」と言い放ったと言うのだ。そのほかにもあさひ銀行(現・りそな銀行)が販売した金融商品「ホテルオーナーズシステム」(取引先の五輪建設と結託して不動産共同小口投資を老人に売りつけた詐欺犯罪)、悪徳不動産会社カネシロ(東京・多摩市)が、1987年~91年にかけ、第一勧銀(現・みずほ銀行)や三菱銀行(現・東京三菱銀行)など銀行と提携して販売した出資法違反の金融商品「ペアライフシステム」(銀行の大目的は融資実績を上げることにあり、“自宅など不動産はあるがおカネのない個人客”がターゲットにされ、年収の数倍から10倍など過剰融資が実行された)など、金融犯罪は後を絶たない。
 そしてお止めは個人ローンへの参入だ。三井住友のプロミス(アットローン、三洋信販など)、三菱東京UFJのアコム・DCキャッシュワン・モビット、新生銀行の0ローン・レイクだ。そこで、私は以下の提案を行なっている。

1.金融セカンドオピニオンの導入。
 10万円の大型融資を行なう場合は必ず利害関係者とは全く関係のない第三者の意見を聞くよう義務付けさせる。返済プランも含めて相談する事を可能にする。
2.金融オンブズマン制度の導入。
 イギリスを見習い、金融問題に関する消費者紛争を解決する裁判外紛争解決機関を直ちに開設させる。
3.金融庁の査察制度の強化と人員増強。
 天下り役人を増やすよりは成果給にして、金融犯罪を摘発した分だけサラリーを高く得ることができるようにする。
4.金融関係への天下りの禁止と査察先からの便宜を受けた場合の処罰を行なう。

2012年07月01日
ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙
 今回取り上げるのは「ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙」である。
 ノルウェーの高校の哲学教師ヨースタイン・ゴルデルによって1991年に出版されたファンタジー小説ではあるものの、哲学者や思想家に関して取り上げている。そうしたものへの入門書としては最適かなと思う。だが、入門書だけにとどまらせるのではもったいない。
 自分で何かを考えて見つけ出す作業が必要なのではないか。私はこの本に出会ったのは高校生のときである。今回の書評に当たってはブックオフで購入している(当然105円のものを購入した)。本を読みました、それで終わりましたじゃ、本の価値や意味はない。それは所詮その人の自慢にすぎないのだ。哲学書でお勧めなのは故池田晶子著の「帰ってきたソクラテス」シリーズでもある。
 哲学と言うのは単に男だけの世界じゃない。たとえばソクラテスの妻のクサンチッペは悪妻といわれているが彼女から見るとなにも仕事をしていないソクラテスこそが悪夫だったのかもしれないのだ。そうした視点が私たちには欠けているのではないか。
 私は男尊女卑でもなければその逆にも立たない。見るべきは事実に過ぎない。現実からどう改善していくかを我々は考えていくべきである。

2012年08月05日
おちくぼ姫
 今回の書評は田辺聖子さんの「おちくぼ姫」である。
 日本版シンデレラと言いつつもいじめたサイドへの復讐があまりにもどきついのに私は唖然とした。まあ、本家本元もかなり残忍な結末がいじめた方に襲い掛かっていることは知っているが。原作は「落窪物語」からだ。
 いじめたサイドへの制裁はあくまでも法に則り正しく罰さなければ意味はない。最近の歪んだ厳罰主義に私は大きな危惧を覚えている。感情のままに相手を裁けば己もそれだけ感情に罰されることを意味する。さらに相手が死んだあとその遺族から冷たい視線で見られる。憎悪の悪循環を断ち切らない限り意味はない。

 私は社会に関する本をよく読むがたまにはこんな本もいいと思う。

2012年10月19日
お父さんはやっていない
 今回の書評は矢田部孝司氏と妻あつ子氏の共著「お父さんはやってない」(太田出版)である。
 2000年の12月5日に矢田部氏は出勤の途中、西武新宿線高田馬場駅で電車を乗り換えようと、ホームを歩いていると、女性に後ろからダウンジャケットをつかまれ、「この人痴漢です」と駅員に突き出された。ところが、矢田部氏には身に覚えがない。
 取り調べの最初から“クロ”として扱われ、否認を続けたのに、犯行を認める供述調書まででっち上げられ調書は抗議して破棄されたが、要求されるまま、当時の電車内の人の位置など覚えている限りのことを図に描かされた。
 だが、この図の詳細さにつけ込まれた。送検後、検事から「痴漢をやろうと周りの人間の様子をうかがっていたからだろう。裁判は長くかかるぞ。何年もな。認めるなら早めに言いなさい」と公権力を悪用した恐喝被害を受けた。こういう愚か者が公権力の信用を失墜させるのだ。
 弁護側は被害者が助けをもとめなかったこと、物的証拠がないこと、被害者は犯人を直接見たわけではないことを指摘して無罪を訴えた。そして誰がどう見ても説得力のある無罪証拠を矢田部氏が出したのにも関わらずて2001年12月6日東京地裁刑事第9部にて秋葉康弘自称裁判官がたれながした判決もどきが懲役1年2ヶ月の実刑判決。考えられないおまぬけぶりである。秋葉は判決で被害者の供述を、核心部分に置いて一貫していて信用に当たると決めつけ矢田部氏の供述は信用し難いとして犯人との同一性についても認めた。弁護側はこの判決に対して控訴した。
 2002年12月5日東京高裁第四刑事部は、矢田部氏が新たに提出した証拠を下に逆転無罪判決を下した。仙波厚裁判長(陪席裁判官高麗邦彦、前田巌)は判決で矢田部氏の供述の信用性が低いとした一審判決を否定。被害者の証言は信用性は高いが、矢田部氏が犯人であると断定するには疑問があるとして犯罪の証明がないと指摘した。この判決に対して検察は上告を断念して無罪判決が確定した。
 この本の信ぴょう性が高いのは痴漢冤罪被害者が実名で権力犯罪を告発していることにある。普通ならできないことを矢田部氏はやってのけたのだった。その勇気に大きく拍手を送ると同時に秋葉には軽蔑の眼差しを送りつける。東京都足立区の隣人女性殺害事件でも常識はずれのおまぬけ判決を垂れ流すこの男には恥という概念はないらしい。

2012年10月19日
騙されやすい日本人
 今回の書評は騙されやすい日本人:宮脇 磊介著である。
 元警察官にして情報収集に優れた方である。元皇宮警察本部長から元内閣広報官という経歴の方で、ブル崩壊について、不良債権総額200兆円のうち60兆円がヤクザ絡みだと指摘し、「ヤクザ・リセッション」を造語している。なるほど、そのヤクザが危機対策として差し迫った課題というのも納得だろう。
 さらに国家間のパワーゲームについてもこの本は取り上げている。私はアメリカと中国・ロシアのパワーゲームに日本は一線を画すべきだと何度も言っている。要するに馬鹿な喧嘩には付き合わないことだ。では、どうやって日本はその両者に巻き込まれずに済むのか?
 この宮脇もメディアと国会の癒着に関わったひとりである。その本人が告白した本なのだから中身は本物であると言わざるを得ない。阿修羅掲示板より引用する。

p23 「国民の目を永田町の実態から隔離してきたカベは、いわゆる55年体制下において限りなく有効に機能してきた。それは、与党自民党の中での密室政治にとどまらず、与野党間の密室談合によって作られたシナリオに沿った国会運営をもたらすことで、その真骨頂を発揮する。これがいわゆる国対型国会運営、「国対政治」といわれるものである。そして、政治記者はシナリオーー国会対策委員会のいわゆるウラ国対で、党利党略の調整の結果まとめたシナリオーーを尊重して、そのシナリオにあった記事作り、紙面構成をしてきた。…自民党は国会対策上、重要法案を最終的に会期内に可決するために、いかにも野党の立場を尊重して五分五分の与野党対決をしているかのようなシナリオを、野党と談合の上で作る。国対委員長が、そのシナリオライターであった。政治記者は、そのシナリオを作成する経緯がわかっていても、紙面で暴露するようなことはしない。むしろ、時にはシナリオ作りに加担することさえあったといわれる。このシナリオには、必ず、「審議拒否」が重要な意味を有する。つまり、白熱シナリオのクライマックスである。・・・野党は審議に復帰し、法案成立のタイムリミットにぎりぎりで間に合う。・・・与野党談合、政治記者黙認の共同作業が生んだお決りの展開が繰り返されていく。」

p186「 行政とジャーナリズムのとの癒着の最大の場は、つとにその弊害が指摘されている記者クラブ制であろう。記者クラブは、政・官・業いずれとの間にも存在するが、政治家と番記者との関係に次いで癒着度が高いのは、官庁記者クラブであるといわれる。長年の記者クラブと行政官庁との間の歴史の中で、次第に記者の独自取材や調査報道の力が削がれ、行政官庁のいわゆる「発表もの」に依存するようになってしまった。「新聞の官報化」は、かねてから指摘されているところである。」

p192 「癒着によりジャーナリズムが書かないこと、ジャーナリズムの腐敗である。マスメディア自身も国民も「癒着は腐敗である」との厳しい見方で臨まないと、マスメディアのモラルハザードが進行する。日本のマスメディアの場合には、ニュースソースとの関係において、意識的・理性的に選択されたポリシーとしてのオープンな協力関係と、こうした癒着とがはっきり区別して意識されていないために、緊張感が欠けて腐敗を生んでいるのであろう。」

p194 「私が内閣広報官の仕事をしている間に自分自身で感得した言葉に、"毒をまわす"という語がある。・・・「魂を奪う」とか「肝を抜く」という言葉は承知していた。「毒をまわす」とは、丁寧に言えば「ご理解いただき、ご協力を賜る」ということである。・・・毒をまわす手法は、・・・システムとしても形成されている。・・・その最も有効なシステムが「叙勲」をエサに魂を奪い虜にすることである。そのシステムの典型は、政・官が特に役所を窓口として、政・官においてこれから実現しようとする政策に対して批判勢力になりかねないマスメディアの関係者・評論家・学者や財界人などを懐柔するための段階的システムである。・・・新聞関係では、特定の新聞社の社長が新聞協会の会長を順に務めるとになっているが、会長経験者には、勲章、それも勲一等瑞宝章が授与されるとが慣行として定着しつつある。新聞人にあっては、叙勲を辞退した人がどれだけいるであろうか。・・・」

 この最後を見てみなさん、あの野中広務氏の告白と重なっていると思わないだろうか。
 この言葉を私たちは驚愕してみるだけではなく直視する必要がある。