2013年10月31日木曜日

反ヘイトスピーチについて-「のりこえねっと」設立について-(パブロン中毒)




 小野哲です。
 のりこえねっとという、反ヘイトスピーチの市民団体に対するパブロン中毒さんからの意見が参りましたのでここに掲載いたします。


 反ヘイトスピーチ運動へのアプローチ方法について、しばし語ってみたいと思います。
 のりこえねっとについては、私も、参加者の顔ぶれをひととおり見たときに、「精神科医が入っていない」「教育関係者が入っていない」ということに、愕然といたしました。
 このことは、いつか書かねばと、思っていたのですが、はっきりいって、反ヘイトスピーチ運動というのは、「精神科医」と「教育関係者」だけで構成されていても、じゅうぶん成立するのです。
 あとは、法律家が少しいれば、よいでしょう。
 ですから、あの団体は、「基本的なところを押さえていない」「認識の方向が間違っている」というふうに、思います。
 そして、サリン被害者の河野(義行)さんのTV出演を拝見いたしましたが、彼はどうも、ネトウヨについて、ほとんど知らないまま、のりこえの共同代表として参加しています。
 ネトウヨのどこがいけないのか、どこが問題なのか、どうして彼らがヘイトを吐いているのかということが、ほとんどわかっていません。

 彼は、「とにかく、いじめはいけない、自分がマスコミや、心ない人たちからされたようなことには、反対する」という、そういうくらいの認識で、共同代表になってしまっています。
 ネトウヨに詳しいというわけでは、ぜんぜんありません。
 ネットで他人に嫌がらせをするという行為の「特徴」すら、わかっていません。
 ですから河野さんは、対面で話をすることができる「街宣ウヨ」に対しては、それなりに有効でしょうが、ネットから出て来ない、ネット上のネトウヨをどうしたらいいのかということについての、ノウハウは、全くお持ちではありません。

 また、辛淑玉さんは、ご自身の立場を、それほど認識されているようではありません。
 ご自身が前面に出るということが、どういう意味を持つのかということを、あまりわかってはおられないようです。
 日本人の行儀を糺すという行為は、そもそも同胞がやるべき仕事なのです。
 辛さんがその先頭に立つということは、反ヘイトの運動のもつ「意味合い」が、全く違ってくるということになりますが、それをわかっておられるとは、思えません。
 辛さんが「ヘイトをやめろ」と言う行為は、「被害者が加害者に対して、自分が受けた被害を告発している行為」なのであって、特定の国の人間が、同胞の行儀を直すという行為では、ありません。
 それとこれとは、まったく話が違います。
 しばき隊の理念は、後者です。
 ですから私は、しばき隊の「成立理念」には、賛同しています。
 それを放棄したら、日本人は、同胞が何をしようが、自分の評判にはぜんぜん関係ないと、そういう勝手気ままな人々であるという、そういうことになるからです。
 辛さんがするべきことは、それが法的なものであっても、そうでなくてアピールに留まったとしても、被害者としての、単純な「告発行為」なのであって、「日本人の行儀を糺す」ということではないと、私は思います。
 さてそのように、のりこえねっとによる「ヘイトスピーチに対するアプローチの仕方」については、私自身は、的を得たものであるとは、現時点では考えておりませんがそれでは、ヘイトスピーチへのアプローチというものをするにあたっては、どういう認識があり、そしてどういう「優先順位」でもって、あたっていくべきなのでしょうか。
 それを整理してみたいと思います。


 ヘイトスピーチを
①加害VS被害という、法的問題としてとらえる(被害者側からのみ、有効な方法である)。
②日本経済の斜陽による、経済問題、社会的難民問題としてとらえる(最近、アーサー・ビナードさんがTV出演時に語った内容と類似)。
③妄想を信じ込んでヘイトを吐き続けたり、非常識な振る舞いをすることを厭わないという点から、精神障害問題としてとらえる。
④彼らのほとんどが、まともな職業に就けておらず、まともな教養を身に着けておらず、著しく知的レベルが低いという点から、LD児のケア問題としてとらえる。
⑤江戸時代ころから日本に定着している、朝鮮人蔑視の延長として、歴史問題としてとらえる、または、民族差別を含め、アイヌや沖縄、部落など、古くからある差別問題の延長・発展系としてとらえる。
⑥そもそも日本の人権意識が低いという、「低西洋化問題」つまり、先進国としての「遅れ」としてとらえる。
⑦在日外国人に対するヘイトスピーチという視点から見るだけでなく、日本人全体の「行儀の低下」つまり、行儀が悪くなった、全体的に劣化したというふうにとらえる。
⑧ネットという新たな媒体が、問題行動に深く関わっているというふうに見て、ネットが引き起こした社会問題としてとらえる。

 おそらくは、今のところは、のりこえねっとのアプローチ法は、あまり確たるものとなってはおらず、茫然としたままであり、①を主たる方針として、⑤に添ってやっていこうと、使えそうな法律ならなんでも使おうと、そのために法律家をたくさん集めたと、そういうところではないかと、思われます。
 さて、これらのアプローチの仕方というものは、挙げてみたからといって、どれか一つや二つを選んでやっていけばいいと、そういうものではないでしょう。
 おそらくは、すべての要素が、ある程度は関係していると思われるからです。
 私は、「優先順位・重要度を定める」ということが、必要だと思っています。
 それを間違えれば、「やってもやっても上手く行かない」ということに、なるわけです。
 そして「答え」「その按配」というものは、まだ「誰も知らない」というところが、問題です。

 ネトウヨというのは、街宣をしている者たちも、すべてネットによる「洗脳・凝縮・自己肯定」の結果として、ヘイトを吐いています。
 彼らは必ず「ネット」の洗礼を受けているのであって、例外はありません。
 年配の右翼の中で、彼らに迎合している者たちは、ネット以前に、別のもので知識を得るか、洗脳されていますから、ネット信者なのではありません。
 それらの年配ウヨは、ネットで育ったウヨたちを利用しますが、実は、中味は「同じ」なのではありません。
 ヘイト吐きになった「過程」がぜんぜん違うのですから、中味がそんなに同じはずはありません。
 ネットで洗脳をされるかどうかというのは、ネットにはまった年齢や、ネットにはまった環境に左右されます。
 年配ウヨには、それらの条件は、いずれも当てはまりません。
 現在行われているヘイトスピーチのすべては、「ネットによる洗礼」を、通ってきています。
 彼らはいずれも、「ネットというもの自体の強烈な信者」です。
 「日本国」の信者である「以前」に、それ以上に「ネットを信じている」のです。
 おそらくは、もしもある日ネット上で、「日本人の先祖は本当は●●人だ。だからその子孫だけが、純血種で正当な統治者である。天皇家は、傀儡である。純血種を確かめる方法は…」などというデマが氾濫した場合には、彼らはいともたやすく「日本国の信者」をやめて、「●●国の信者」になるでしょう。
 日本国の信者である前に、「ネット」の信者なのです。
 今はただ、彼らの「神」である「ネット様」が、「日本を信じよ」と言っているから、そうしているというだけの話です。
 ですので、こんにちのヘイトスピーチに対処するには、まずは「問題を起こした個人と、ネットとの関わり」に対処していかなければならないというのが、私の考えです。
 ネットに関わらなければヘイトを吐いていなかった個人が、吐くようになったと、いう場合には、「病原」は、ネットという媒体そのものにあるのか、ネットの中のどこかにあるのか、両方なのか、なのです。
 また、ヘイト吐きの多くが「負け組・社会的弱者である」ということから見ても、彼らの多くが「もともと資質に恵まれていないか、家庭環境にも恵まれていない」ということは、明らかです。
 ですので、④は重要度が高いと思われますし、なんらの躊躇もなく、繰り返し異常行動を行うという点から見ても、③についての重要度は、はなはだ高いものと、思われます。
 これらの者たちについて考える場合に、「日本の経済問題=就職先の減少または非正規化の促進」という面において「特に重く」見た場合には、③や④や⑧についての「問題」は、ほとんど放置されたままになります。
 もしも日本の経済状況が、80年代中盤のような状態になったとしても、それらの問題を抱えた者は、抱えたままです。
 「日本の経済環境の好転」が、いったいどの程度、「現在ヘイトを吐いている者たち」に「ヘイトを吐かなくさせる」ことができるのか、その点については、私は懐疑的です。
 そして、③や④や⑧こそが、「こんにち」の「特異な」ヘイトスピーチを生んだ主な原因であると考えた場合には、不況に対処するよりも、「社会的弱者が抱えるもともとの問題」について、重点的に対処しなければならないと、いうことになるのではないかと、私は考えています。
 さらに、作家の清水義範が10年以上前に、「行儀よくしろ」という本を書いたことがありましたが、日本人全体の行儀が悪くなっていると、それについても、こんにちのネットから飛び出したヘイトスピーチの原因として、とらえるべきではないかと、思います。
 そもそも、「差別感情」「憎しみ」「嫌悪感」というものは、「そういう感情があるから悪い」というふうに、いくら他人から説教されても、「ああそうですか」といって「なくす」ということは、不可能です。
 私は、差別問題というのは、「基本的な行儀振る舞いの問題」だというふうに、思っています。
 歴史がどうとか、国家間の問題がどうとか、そういう話に「持ち込む」ことは、あまり当たらないと、実は思っています。
 そういう話を、ネトウヨ相手にいくらやっても、無意味だなあと、考えていますから、そういうことばかりを熱心にやっている方も見受けられますが、ご苦労様なことだなあと、いつも私は思っています。
 差別感情というものは、誰にでも多少はあるということを認め、なおかつ、自分自身も、外国に行けば、当然のように東洋人差別をされるという逆の事態を予想し、認識し、まあそれは「あからさま」なものではないでしょうが、東洋人差別はされます。
 ネット上でも、東洋人差別をされるのですから、リアルなら、必ずされます。
 そして、差別感情を「どうやって出さないようにするか」「行儀をよくするか」ということのほうを、意識するべきであると、思います。
 ヘイトスピーチというのは、簡単に言えば「ああ、お行儀が悪い」という、そういうことでもいいわけです。
 彼らがヘイトを吐かなくなればそれでよく、彼らの頭の中がどうなっていようが、別にそんなものはどうでもいいのです。
 ヘイトスピーチは、「頭の中」から出てくるわけですが、「頭の中」をすっかり改造するということは、現実には、適法範囲内では、できません。
 普通の成人ならば、「汚いものを頭の中から衆人環境に出す」前に、「行儀」「世間体」「社会的立場」というものが、それを遮るわけです。
 彼らには、その遮断システムが欠けているというふうに、考えてみるのです。
 彼らにそうさせた原因は、第一には、ネットという「無礼講空間」が与えられたことなのであって、さらに教育が足りないとか知的レベルが低いとか不遇であるとか、そういうものが重なって、平気でああいうことができるようになっているわけです。
 傍から見れば「単なる怪物」なのですが、自分ではぜんぜんそう思っていません。
 無礼講を「無礼講だと認識できない」ということは、非常に怖いことだなあと、思います。
 現実的で、さらにそれほど的を外さない「ヘイトスピーチ対処法」というものの「あり方」については、もっと論議がされるべきであると、思われます。
 今のところ、これをつき詰めて考えた人というのは、それほど存在せず、おのおのが自分の考えでバラバラに対処していると、そして「ノウハウ」というものが、共有されず、蓄積もされないという状態が、おそらくは10年程度は続いているのではないかと、見られます。
 何年にもわたって、一匹狼的にネトウヨと対峙し、自らノウハウを身に着けている方も、それを他人に授けるとか、知識を共有するとか、広げていくとか、組織化するとか、そういうふうにはなりません。
 あくまでも「すごい人がいるねえ」ということで、終わるわけです。決して「それ以上」には、ならないのです。
 ですからアンチネトウヨ運動というのは、「とにかくヘイトを吐くなという、当たり前のことだけを言っている」にも関わらず、数と投稿数で圧倒するネトウヨたちの前に、はなはだ無力なのです。