2013年10月30日水曜日

崩れた金融ビックバン 山一證券の場合

2012年05月15日




 今回取り上げるのは山一證券である。
 だが、沿革が全くなかったのでWikipediaを参考に自分なりに書かせてもらう。

 1897年4月15日 山梨県出身の創業者小池国三(1866~1925)が東京株式取引所仲買人の免許を受け、1週間後兜町に「小池国三商店」を創業。
 1907年 小池合資会社に改組。1909年の国債下引受、1910年の江之島電気鉄道社債元引受など、債券引受業務に証券会社として初めて進出した(小池は1909年に、渋沢栄一氏らと米国を視察旅行し、ウォール街で投資銀行の地位の高さに感銘を受けた。小池はその後、債券の引き受けなど投資銀行業務に力を入れたという)。
 1917年4月15日 開業20周年をもって小池合資を解散し、その跡を引き継ぐ形で1917年杉野喜精を社長に山一合資会社が設立。
 1926年 山一證券株式会社への改組。
 1935年12月 杉野が東京株式取引所理事長に就任する為社長を辞任し、後任社長に太田収が就任。
 1938年5月4日 自らが指揮した鐘淵紡績新株投機戦の失敗の責任を取って太田は社長を辞任、後任として副社長だった平岡伝章が暫定的に社長に就任、さらに12月には専務だった木下茂が社長を引き継いだ。
 1943年9月 山一證券と、小池国三の小池銀行が改組した小池証券とが合併して新しい山一證券株式会社が発足した。社長には小池国三の次男で、小池証券の社長であった小池厚之助が就任(1954年まで)。
 1954年 大神一副社長が小池厚之助(会長に就任)の後任の社長に就任。1957年頃には野村證券が業界トップの座を占めるようになり、山一は業界2位となって、その差は年々開いていった。
 1964年8月 大蔵省は検査の結果山一の危機を把握。メインバンクの1つであった日本興業銀行頭取の中山素平は、興銀同期入社で日産化学工業の社長をしていた日高輝を再建のため山一證券社長に送り込んだ。
 1964年11月 大神は会長となり、日高が社長に就任。1961年には岩戸景気が終焉を告げ、株式相場が7月をピークに下げに転じた。この中で投信解約や手数料収入の低下により山一の経営も悪化を続け、経常損失は1963年9月期で30億円、1964年9月期で54億円に上った。
 1965年5月21日 大蔵省による報道自粛協定外だった西日本新聞が山一の経営状態を朝刊で1面トップ記事で掲載した結果、翌22日に取り付け騒ぎが発生。3日間でその額は70億円と言われ、山一は倒産必至、証券恐慌、金融不安につながる危険性も充分にあった。
 1965年5月28日  東京赤坂の日銀氷川寮で、政府・金融界トップの極秘会談。出席者は、田中角栄蔵相、佐藤一郎大蔵事務次官、高橋俊英銀行局長、加治木俊道財務局調査官、佐々木直日銀副総裁、中山素平興銀頭取、岩佐凱実(よしざね)富士銀行頭取、田実渉(わたる)三菱銀行頭取の3銀行頭取。田中蔵相の説得(実態は恐喝に等しかったものだが)により特融が決まった。午後11時30分、田中蔵相と日銀総裁の宇佐美洵が記者会見し、「政府、日銀は現段階において証券界の必要とする資金については、関係主要銀行を通じて日銀が無制限・無担保で特別融資を行うことを決定した。差し当たり山一證券に対しては日本興業銀行、富士銀行、三菱銀行を通じて実施する。今後、証券金融について抜本的見直しを行う」ことを発表した。そして政府が34年ぶりに日銀法25条を発動し、「無担保無制限無期限の日銀特別融資」を即決し、倒産の危機に見舞われていた山一證券を救った。6.7日、第一回目の融資として、45億円が日銀から融資された。続いて、7.8日には大井証券に対しても10億円の特融が行われた。この時の日銀総裁は宇佐美洵。
 1972年 日高は社長を辞任して会長となり、後任として植谷久三が就任。
 1980年12月 横田良男が社長に就任。
 1985年9月 営業の軸足を法人へ移し、一任勘定・営業特金(法人の資金を一任勘定という自由に売買して良いという了承の下に預かり、運用するもの)獲得を最優先する方針を決定。
 1986年 三菱重工転換社債事件(三菱重工業の依頼により、値上がり確実な転換社債を総会屋にバラまいたというものでこのバラまき先のリストを投資情報誌『暮らしと利殖』のオーナー生田盛が手に入れ、それを元に山一に揺さぶりを掛けた。困った山一は総会屋の大御所上森子鉄に仲裁を依頼する。上森が示した調停案は、行平次雄を辞めさせるか、成田芳穂を社長にしろというもので植谷は、行平を取締役から外し、ロンドンにある現地法人・山一インターナショナルの会長とすることで手打ちとしたが植谷自身が酒に酔って経済誌『財界』のインタビューに応えて全経緯を話してしまい、それが1986年12月号の記事となったものが、特捜検事であった田中森一の目に止まったのである。田中は成田を呼び出し、政官界を含めた転換社債とカネの流れについて取り調べをしようとしたが、成田はその数時間前に首つり自殺)が発生。
 1988年9月 行平次雄が社長に就任。1987年から1990年にかけて毎年1,000億円以上の経常利益を計上。
 1989年5月 この時からの数回にわたる公定歩合引き上げにより、高騰していた株価は1989年12月の最高値を最後に暴落を重ね、1989年11月には大和證券を皮切りに損失補填問題が発覚した。バブル崩壊により、「営業特金は多額の損失を抱えることとなったが、行平は根本的な処理をすることなく先送りを続けた。
 1992年6月 三木淳夫が社長に就任。だが簿外損失を処理はしなかった。
 1997年3月25日 野村證券に対して総会屋小池隆一への利益供与の容疑で東京地検と証券取引等監視委員会の家宅捜索が入った。
 1997年4月28日 山一の1997年3月期決算は、過去最大の1,647億6,300万円の当期損失。
 1997年8月11日 総会屋利益供与問題の責任を取ってには行平・三木をはじめとする取締役11人が退任した。後任として社長に野澤正平、会長に五月女正治の両専務が昇格することが発表された。だが含み損のぞんざいを野澤は知らず部下から知らされることになる。
 1997年9月24日 前社長の三木が利益供与問題で逮捕。
 1997年10月6日 渡辺正俊財務担当常務と沓澤龍彦前副社長がメインの富士銀に財務改善計画を提出、2600億円の含み損と200億円の係争案件の存在を明かし再建計画を説明し、支援を求めた。
 1997年10月15日 クレディ・スイスとの提携交渉を開始。
 1997年10月23日 山一の中間決算発表日に、東京地検特捜部が昭和リースに対する損失補填容疑で家宅捜索に入った。27億円の経常赤字の発表。
 1997年11月11日 富士銀行から最終回答があり、大型追加融資の不能(劣後ローンは富士からは250億円程度が限度で、あとは他行から借り入れてほしい)の通告に加え、過去の無担保融資分の担保差し入れが迫られ、14日に富士銀行は山一を見限る最終通告をした。山一は必死で外資提携先を探していたが、最有力候補のクレディ・スイスとの交渉は延々として進まなかった。欧州の金融機関(コメルツ銀行とING)に最後の望みを託したが叶わず万策尽きた。22日明けからの資金繰りが危うくなっていた。
 1997年11月14日 野澤社長が大蔵省証券局長の長野厖士に対して簿外損失約2600億円の存在を初めて説明し資金繰りに窮していることを伝えた。長野局長は,「もっと早く来ると思っていました。話はよく分かりました。三洋証券とは違いますのでバックアップしましょう」と答えたとされている。野澤社長の大蔵省訪問と同じ時間に五月女会長らは日銀を訪問し、大蔵省への報告と同じ内容を伝えた。翌15日、大蔵省証券業務課長の小手川大助は長野の指示を受けて山一の藤橋企画室長から説明を受ける。
 1997年11月16日 藤橋常務と経理部長らが大蔵省に呼ばれ、小手川証券業務課長(現IMF理事)に含み損の概要、会社再建策、支援先の状況、外資との提携などについて説明をした。小手川は絶望感を持ち、長野局長に「今週中にも決断が必要です」と述べたとされる。17日の株式市場で山一證券の株式が値下がり。
 1997年11月19日 野澤は再度大蔵省に証券局長の長野を訪ねた。長野は「感情を交えずに淡々と言います。検討した結果は自主廃業を選択してもらいたい」と通告した。「会社更生法の手続きを踏むには時間が足りない」と伝え、更正法以外の処理の最終決断を促した(更生法では顧客資産の保全処置が取れないため、デフォルトを引き起こしてしまう)。その夜、証券局幹部ら10名前後が局長室に集合し、20、21日は株式市場が開いているため連休に入ってから発表することを申し合わせた。
 1997年11月22日 午前3時頃、日本経済新聞が「山一証券、自主廃業へ」という電子ニュース速報を流した。急遽、役員たちが集められ、午前8時から臨時取締役会が開催された。この日の午後10時、大蔵省証券局長の長野が記者会見し、山一証券に2千億円を上回る簿外債務の存在を明らかにした。
 1997年11月23日 断続的に取締役会を開いた結果、同日夜、野沢社長が大蔵省に証券取引法34条に規定に基づき「明日、(自主廃業を)決めます」と伝えた。
 1997年11月24日 午前6時から本社(東京・中央区)で臨時取締役会が開かれ、野沢社長が、「自主廃業を決めざる得ない。決議してほしい」と切り出し、自主廃業に向けた営業停止が正式に決議。午前11時30分には社長の野澤、会長の五月女、顧問弁護士の相澤光江が東京証券取引所で記者会見。午前10時半、蔵相の三塚博と日銀総裁の松下康雄が相次いで記者会見し、日銀が山一証券に顧客保護を理由に無担保・無制限の特別融資(日銀特融)を実施するなど顧客資産保護に万全の体制をとることを明らかにした。負債総額は3兆円を超え、事実上、戦後最大の倒産となった。大半の店舗はメリルリンチ日本証券が継承。
 1998年3月4日 山一証券の経営破綻を招いた約2700億円の債務隠し事件で、商法違反(違法配当)などに問われた行平、三木、前副社長白井隆二各容疑者ら3人が東京地検特捜部に逮捕。
 1998年6月 株主総会で解散決議に必要な株主数を確保できなかったことから自主廃業を断念、破産申立てへ。
 1999年6月2日 東京地方裁判所より破産宣告を受ける。
 2005年1月26日 この日の債権者集会をもって破産手続きが完了。2月に破産手続終結登記が完了。
 2007年 山一證券の商標権を元社員で転職支援や人材派遣を手がける人材会社、マーキュリースタッフィング(東京・港)の創設者の永野修身氏が取得。総合証券として山一證券の復活を目指す。
 2011年4月 元社員立川正人氏が創設したIBS証券(投資銀行)がIBS山一証券(小笠原勇社長)に社名変更し、山一の名称が復活。永野氏も社外取締役に就任し協力。

 証券というのは基本的にギャンブルである。
 ただ、合法化されたギャンブルといったほうが分かりやすいだろう。「ギャンブルじゃない」と主張する人たちは還元率(全体を平均して戻ってくるお金の割合)を根拠としているがそれだけ損も大きいのである。たとえば会社更生法を申請してしまえばその会社の株主は紙切れになってしまうではないか。
 そんな当たり前の常識が分からないから、ギャンブルに走るのである。