2013年10月22日火曜日

差別を考える

2011年12月14日
野中広務 差別と権力
 今回は魚住昭著「野中広務 差別と権力」を取り上げる。
 私は野中の本質は理想を実現するためには手段を選ばない強引さにあると思う。部落差別の出身である野中がそうでもしないと生きていけなかったのであり、いわば犠牲者だった側面が強い。だから、弱者への優しいまなざしを忘れなかったのだろう。
 今回は歴史に関して過去記述したコメントをここに載せる。

歴史に鈍感じゃ憎悪 を招くだけだ(小野哲)
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2011-01-30 07:23:22
<アジア杯>韓日戦、「キム・ヨナ悪魔仮面」「旭日旗」に非難集中
中央日報日本語版 1月27日(木)9時0分配信

 サッカー韓日戦に使用された日本側の応援道具に対するネットユーザーの非難が激しい。
 25日に行われたアジアカップ準決勝の韓日戦で、日本側の応援席に「旭日旗」と「キム・ヨナ悪魔仮面」が登場した。
 一部の日本サッカーファンがフィギュアスケート選手キム・ヨナの顔写真を切り取って作った「キム・ヨナ悪魔仮面」をかぶって競技を観戦しているのがテレビに映った。
 また競技場に旭日旗が掲揚されている場面も見えた。旭日旗は日本帝国時代に使われた旧日本軍の軍旗で、過去に韓国をはじめ周辺国を侵略して植民地にした日本帝国主義の象徴だ。
 試合が終わった後、ネットユーザーは各種オンライン掲示板で「あれはちょっと違う」「世界的に非難されている旭日旗をまだ使うのは失礼だ」「キム・ヨナの顔に角とは 」などの反応を見せている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110127-00000001-cnippou-kr
最終更新:1月27日(木)9時0分

 これで、スコットランドリーグのセルティックで活躍しているキ・ソンヨン選手が猿の鳴きまねを日本サポーターに向かってやった。
 これで日本のネットではキ・ソンヨン選手への批判があるが、逆に私は今回の記事にがっかりしている(日本サポーターの鈍感さに)。旧日本軍旗を応援に使う鈍感さもそうだが、韓国の英雄を馬鹿にするようなやり方はとても応援には値しない。キ・ソンヨン選手のやり方には賛同しがたいが、日本サポーターにも応援とは呼べない事はしないでほしいと苦言をていする。こんなことをしてしまえばサッカー嫌いの人が増えるだけだ。
 私がアビスパ福岡のフーリガンであるウルトラオブリを批判している理由を解しているなら、キ・ソンヨン選手の思いは分かる筈だ。過去の戦争から目を反らし、言い逃ればかりするようでは誰も日本を信用しなくなる。ましてや、フィギュアスケートにまで余計な火の粉を飛ばす事で追い詰められるのはキム選手であり、浅田真央選手である。我が盟友から何度も警鐘が鳴らされているのに認識しないのは鈍感である。
 サポーター達はフーリガン紛いの応援を止めるべきだ。これで新たな遺恨ができてしまった。10年前にホームから線路に転落した人を助けようとカメラマンと一緒にホームに降りて電車にはねられて亡くなった韓国人留学生があの世で泣いている。
 歴史に鈍感じゃ、憎悪を招くだけで困るのは我々だということを認識すべきだ。遺恨よりは相手に全力で戦い、相手を讃える者こそが真のスポーツマンシップだということを忘れないでもらいたい。
 

甘いお菓子しか食べない間抜けな坊や(小野哲)
2010/05/02 06:43

従軍慰安婦教科書売れず、出版中断
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=128534&servcode=A00§code=A00
韓国 中央日報 2010年4月23日
日本軍の従軍慰安婦問題を良心的に扱ってきた日本書籍の歴史教科書の出版が中断された。日本書籍は、これまで中学校の教科書で従軍慰安婦の存在など日本の過去の侵略行為を客観的視野から記述してきた。この教科書を現在出版してある日本書籍新社は21日に締め切られた文部科学省教科書検定申請をしなかったと産経新聞が22日報道した。
日本書籍の歴史教科書は極右勢力から「自虐的歴史観に基づいたもの」という批判攻勢を受け、最近10年間採択率が激減した。この教科書は一時、東京都23区全体で採択するほど利用者が多かった。今年の採択の割合は3%ほどにすぎない。2000年代に入り右傾化ブームが大きく作用した。極右派として有名な石原慎太郎氏が1999年、東京都知事に就任して以来、11年間東京都教育委を掌握したのがこうした結果に影響を及ぼした。
また2001年、首相に就任した小泉純一郎氏が、A級戦犯が合祀された靖国神社に参拝するなど、日本社会が右傾化の渦に巻き込まれながら日本書籍教科書は立つ瀬を失っている。こうした余波で日本書籍は2004年に倒産した。現行の教科書は日本書籍新社が引き継ぎ、今日まで発行してきた。
この教科書は従軍慰安婦に対して比較的具体的に記述するなど、日本の戦争責任を大きく強調している。2004年、文部科学省の検証を経た現行教科書は、従軍慰安婦と関連する朝日新聞記事の写真まで掲載し、日本の過去のことを告発している。また日本の敗戦直前の米軍との熾烈な攻防戦をした沖縄戦闘に対しても言及している。住民たちが日本軍から集団自決を強要された事実も掲載されている。
しかし右翼勢力はこうした記述を「根拠のない内容」と反発した。右翼団体である「新しい歴史教科書をつくる会」は2001年、扶桑社出版社を通じて「新しい歴史教科書」を出版し、昨年4月には自由社を通じて2番目に歴史歪曲中学校教科書を出版した。
(C)中央日報社

 甘い菓子しか食べないお間抜けな子供は信用できない。
 私は厳しい見解を示さざるを得ない。そもそも、第二次世界大戦の加害者たちが当事者だから知りうる証言をしているのだ。これらに嘘は到底考えにくい。私は「自由主義史観」を拘束主義史観であると指摘している。その理由は事実を隠して、日本は清く正しくでかい国(原爆では被害者であると強調したいだけ)でありたいという幻想のオアシスに浸っているからだ。佐高信氏は「不自由主義史観」と皮肉っていたが、私は歴史の事実を拘束するという意味で拘束主義史観と言っている。
 これは一般的常識だが甘いお菓子ばかり食べて野菜を食べない子供は大きくなれない。ここで言う野菜というのは事実・真実である。そうした子供は病弱になるのは言うまでもない。思想でも同じ事が言える。歴史の事実から目をそらせばそらすほど相手からの信頼はとうてい勝ち取れない。
 そんな彼らをどうやって信用するのか。そういう馬鹿者を故事成語で言えば夜郎自大というのである。私は高校時代、世界史をとっていた。それには理由がある、というのは世界からみた日本という視点でこそ、歴史は多角的に見られやすいからだ。山川出版社の教科書だったが、それとても徹底的に私の知りうる事実を書き込むようにしてきた。 こうした積み重ねこそが、本当の歴史である。拘束主義史観の正体は、皇室を中心とした「英雄」という名前の支配者の物語にすぎない。すなわち、平べったく言えばhis storyと言うべき代物であり、historyではない。今回の記事では拘束主義史観の日本書籍への誹謗中傷で会社が倒産したという恐ろしい事実が載っている。
 私はこのことを真に受けるつもりはないが、歴史をねじ曲げる拘束主義史観やフランコ石原のような戦争責任を不当に居直る愚か者は断じて許さない。既に第二次世界大戦の戦争責任は国際法の立場からも決着している事だ。その事実が気にくわないとは何事か。拘束主義史観に利用されている皇室の人達が気の毒に見えてくる(だからと言って皇室削減論は撤回する気持ちは皆無だが)。
 子供そのものの拘束主義史観に警告しておこう、まあせいぜい改善するとは思わないが(笑)。
 「貴様等が嘘を隠そうとして嘘を重ねれば重ねるほど、歴史の犠牲者はさらなる憎悪でやり返す。憎しみの連鎖を貴様等が拡大しているという事をきっちり受け止めるがいい!!」

Historyか his storyか(小野哲)
テーマ:ブログ
2009-03-20 10:01:36
マルティン=ニーメラーの警句
ナチが共産主義者を襲ったとき,
自分はやや不安になった.
けれども結局自分は共産主義者ではなかったので
何もしなかった.
それからナチは社会主義者を攻撃した.
自分の不安はやや増大した.
けれども依然として自分は社会主義者ではなかった.
そこでやはり何もしなかった.
それから学校が,新聞が,ユダヤ教徒が,
というふうにつぎつぎと攻撃の手が加わり,
そのたびに自分の不安は増したが,
なおも何事も行わなかった.
さてそれからナチは教会を攻撃した.
私は教会の人間であった.
そこで自分は何事かをした.
しかし,そのときにはすでに手遅れであった.

 歴史について今回は論じる。英語で訳せばhistoryなのだが、これにはラテン語で神の物語という意味がある。この言葉が流行った欧州の歴史は戦争の歴史だった。戦争で支配者が絶えず変わり、それに翻弄された庶民の歴史でもあった。
 そして、王権神授説という絶対王政の裏付けで、historyはhis storyに転じてしまった。支配者が神として絶対化されていったのである。絶対化された国王は政治家として暴走しても責任をとらない。そこに、不満を持った貴族によるイギリスの清教徒革命は、支配者の変更という歴史の転換点となった。だが、そのリーダーだったクロムウェルは支配者として自身の絶対化を図った。そこでぶり返しがきて、無血革命につながったのである。
 フランスだがこれも結構キツい。ブルボン王朝による独裁が長きにわたって続いたフランスは国家財政の破綻に国会を開いたが、貴族と市民との間で大きな対立が起こり、フランス革命になった。そして、ナポレオンの出現である。だが、これはhis storyサイドの人物だったのだが大きな支持を得た。その理由は相手もhis storyサイドだったに他ならない。
 支配者が自らを絶対化したがる習癖はどの時代とても変わらない。ヒトラーが目指していたのは「第三帝国」と称する国家であった。つまり、国王が総統に置き換わっただけにしか過ぎない。そうでなければ自身への批判を許すわけがない。スペインの場合もフランコ独裁が長きにわたった後の国王を中心とした現体制が段階を踏んで民主化復帰を果たした。そして、フランコもスターリンと同じように偶像を建てさせるなどして自らを絶対化した。
 そこには真実を伝えるhistoryではなくhis storyが強要され、絶賛される。創価学会やオウム真理教、統一協会、エホバの証人などの反社会性の強いカルト団体では教祖もしくはそれに相当する人物が強引に神聖化されている。そこにあるのは、his storyであってhistoryではない。それは今の北朝鮮やロシアにも当てはまる。当然、ゴマすりの自由はあっても、批判の自由はない。それを外から見ると、裸の王様そのものでしかない。イエス・キリストにしてもマホメットにしても仏陀にしても絶対化する動きを嫌っていた。
 今回、ニーメラーの警句を先頭に持ってきたのは「コメント」への回答であると同時に、歴史が庶民の手にあり続けるには継続的な努力を我々は持たなければならないと言うことを示したかった。そこで、このコメントになったのだ。
 歴史は誰のものなのか。私は一人一人の民衆の手にあるといいたい。それが民主主義なのだ。私自身の発する言葉は何も絶対的なものではない。一人一人が苦しみながら作っていく物語なのだ。
 
豊臣秀吉は本当に英雄なのか(小野哲)
2010/01/25 14:41

 豊臣秀吉は本当に英雄なのか。
 私はその存在をも疑っている。何故なら、歴史というのは勝者により絶えず書き換えられるからだ。私自身、豊臣秀吉を嫌っている。朝鮮派兵もそうだが、晩年の公私混同の数々は本当に腹立たしい。勝者故に歴史は自由気ままに曲げられる。それをhistoryというのは間違いでhis story、支配者の物語でしかない。
 そうした視点でいってしまえば、最近の大河ドラマは歴史を語っているのではなく、主役を語るだけにとどまっている。その悪癖は司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」でも残念だがはびこっている。主役主観は歴史をきっちり描けない。むしろ歪ませるだけだ。むしろ、秀吉が歪んでいく過程をきっちり見ていかねばならない。
 島原の乱という江戸初期のキリスタンによる圧制への抗議の一揆は江戸幕府の主義主観で言えば反乱なのだが、キリスタンたちにとっては民衆の蜂起である。絶えず一方的な主義主観におぼれて、逆の視点をみないのは決してフェアとは言えない。これは十字軍遠征でも言えるし、アイヌ民族による江戸時代後期の独立戦争にも言える。
 歴史は悲しいことに勝者によって書き換えられ、勝者が成し得たことは庶民の思いと関係なく全て正当化される。だが勝者が全てで正義とは言えない。本田技研工業創設者の一人である本田宗一郎は徳川家康を嫌っていた。理由は江戸城築城の際に城の内部を建築した大工を生き埋めにしていたからだ。「人間には許せることと許せないことがある」とも評論家・作家の佐高信に話していた。
Neutralizer加筆:
我が親友が言ったとおり、歴史は殆どが脚色されているといっていい。
例えば『忠臣蔵』で悪役とされている吉良上野介である。実際の彼は自分の治めていた領地では領民から慕われていたし、賄賂を取ってはいなかった。また『黄門様』でおなじみの徳川光圀は領地の水戸では重税をかけていたという悪人説がある。
こういった例は枚挙にいとまがない。最近話題になっている『歴女』なる女性達に告ぐ、歴史やその中にいた人物に興味をもつのは大いに結構なことだ。
だが最近のゲームや漫画で影響されただけででは外見本位の興味でしかない。これはフジテレビの番組『トリビアの泉』で知ったことだが千円札の顔にもなった野口英世は自分の伝記について「人間は誰だって完全ではない。人生には浮き沈みがあるのに浮き沈みがないのは悪い本だ」と不機嫌になったそうである。
つまり完璧な人生や容姿をもった人間は一人としていない、誰にでも後ろめたい影をもっているということを踏まえて歴史に興味をもって欲しい。

自らの耳は塞げても(小野哲)

2009/08/15 18:11

64回目の敗戦記念日はすなわち、韓国にとっては光復節、独立回復である。
 今回はこのことを念頭にコメントしたい。現天皇は未だに昭和天皇の戦争責任を認めていない。遺憾という言い逃れでごまかしているのだ。
 だが、いかに自由主義主観と称する拘束主義主観・戦争責任を認めないお間抜けな輩どもは戦争被害ばかり叫び、「自分たちは植民地にこれだけいいことをやった」とほざく。しかし、その評価はあくまでも第三者の目から見ていびつなものであることは明らかだ。
 小林よしのりや藤岡信勝らは事実をふさごうと自らの耳を塞いでいるが、今や事実はネットで暴かれ、彼らの「主張」がもろく儚いものであることを物語る。彼らの「教科書」では事実を塞いでいる。私は彼らの「教科書」を手にしたら徹底的に書き込んで訂正させる。戦争被害を受けた人たちにとって見てみると今の日本の「教科書」が事実から目をそらす代物であり、以前私が話した「his story」としてのhistory、つまり支配者の物語に成り下がっているにしかすぎない。
 昭和天皇の戦争責任を認めていたのは天皇家ファンだった本田宗一郎、井深大(ソニー創業者)、鈴木貫太郎(戦争末期の首相)だった。こうした人たちの声を小林や藤岡は故意にねじ曲げ、ごまかしているのだ。
 誤解無きように申し上げるが、私は護憲派にして保守的な人間である。ただ事実から目をそらすなと言いたいだけなのである。


 なお、コメントは事実に沿った物以外受付は出来かねます。戦争責任を居直る根拠無き暴言は荒らし投稿として受け付けませんしアクセス禁止を言い渡します。

 つまり、野中が反発したのは強者の歴史観そのものであったのだ。
 つまり、His Storyとしての司馬遼太郎、渡辺淳一に対して庶民の物語としての池波正太郎や宗田理、佐高信があり、野中は明らかに後者である。His StoryのHisとは勝者、すなわち支配者である。支配者の物語など、本当の話ではない。脚色されたものに過ぎないのである。
 経営者がよく司馬を勧めたがるのはそうした現実離れの世界におぼれているに過ぎないのではないのか。そうじゃなかったら、派遣請負を雇用で乱用して都合が悪かったら切り捨てる傲慢さに繋がるまい。その被害者が、カルデロン一家だとしたら残忍そのものではないか。

http://www.amazon.co.jp/%E9%87%8E%E4%B8%AD%E5%BA%83%E5%8B%99-%E5%B7%AE%E5%88%A5%E3%81%A8%E6%A8%A9%E5%8A%9B-%E9%AD%9A%E4%BD%8F-%E6%98%AD/dp/4062123444


2012年04月22日
「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」
 「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」 アレン・ネルソン(著)を今回の書評で取り上げたい。

「かわいそうなミスター・ネルソン」
女の子がそう言いました。彼女は、私のために泣いてくれているのです。
頭がじんとしびれたようになり、胸が大きく波打ち、突然に息がうまくできないようになりました。深呼吸をしようと、大きく息を吸い込み、そしてふるえながら息を吐きました。と、同時に、私の目から大粒の涙が幾粒も幾粒も頬を伝っていきました。涙は頬からあごへまわりこみ、ボタボタと落ちていくのがわかりました。
(略)
アパートにもどったわたしは、出かけたときの私とはちがっていました。
自分自身の事が、とてもよく見えるような気がしました。
何をすべきかもわかったような気がしました。
わたしが戦ったベトナム戦争を、悪夢として時間の牢屋の中に閉じ込めるのではなく、今もなお目の前でおきていることとして見つめなくてはならないのです。
悪夢に勝つためには、真実を語る必要があるのです。自分自身に対しても、そして他者に対しても。

ベトナム帰還兵が語る本当の戦争
アレン・ネルソン氏に聞く


2004年2月5日(東京新聞)
ベトナム帰還兵が語る本当の戦争

戦場のストレスからイラク駐留米兵の自殺率が高まっている。ベトナム戦争に従軍した元海兵隊員アレン・ネルソン氏(56)も、かつて戦争後遺症で自殺未遂を繰り返した。「本当の戦争はまだ始まったばかり」と惨劇の悪化を予測する。人を殺すことは簡単だ、とネルソン氏は語る。だが、殺した後に本当の地獄が待っているとも。来日中の「戦場の語り部」にイラク戦争、自衛隊派遣を聞いた。(田原拓治)

「(イラクという)第2のベトナムはまだ始まったばかりだ。イラク人が占領を甘受できない以上、米国や連合国に勝利はない」
 今月2日、東京・大東文化大。ネルソン氏の話はリアルだった。黒板には人間の絵。どこを撃つべきか、と約50人の聴衆に聞く。
「頭は的が小さい。外れれば、反撃でこちらが殺される。腕や足、心臓でもない。正解はここ」。指したのは下腹部だった。「ここが最も当てやすく、相手が苦しむ。苦しみ抜いて死んだ同僚もたくさん見た」
 意思を消し、殺人マシンになること。兵士に共通した宿命と彼は語る。
「人を殺すのはとても簡単だ。悩む暇なんてない。ただ、訓練で撃つのとは全く違う。殺した瞬間、1つの境界を越えて別世界に入らざるを得ない」
 ベトナム派遣が決まった瞬間、うれしかった。何のための苦しい訓練だったのか、がもうすぐ分かる。自分の価値もこれで認められるだろう。同じセリフは、イラク派遣に加わる自衛隊員も口にしていた。
「撃った後、そこに死体がある。やつが殺そうとしたからだ、と自分を正当化しようとした。しかし、吐き気がこみ上げる。上官はそれを見て一人前とほめる。慣れようと、もっと人を殺す。終戦後、外国の傭兵(ようへい)部隊に志願した仲間もそうした心理からだ。人を殺すことで自分を殺していた」
 ベトナム戦争で、米国は5万8000人もの犠牲者を出した。にもかかわらず、その後もグレナダ、パナマ、湾岸などを経て、イラク戦争を勃発(ぼっぱつ)させた。反戦運動にむなしさはないのか。

■外交より銃が先に出る米国
「戦争には複合的な要因があるとはいえ、米国が暴力的な国家であることは米国人の私が知っている。外交より、銃が先なのだ。ベトナムは間違いだったとみんなが思っている。そこでこう考える連中がいる。よし、今度は間違えずに帝国を樹立してやろうと」
「この発想は9.11事件を悪用して力を発揮した。私たちはこのグローバリズムという帝国の発想を否定する。かつてと違い、反戦運動もまた、米国の枠を超え、広がっている。民主主義という建前も幻想だ。欧米型の民主主義はイラクのようなイスラム世界で受け入れられようがない」
 多くの帰還兵が戦争後遺症で苦しんでいるにもかかわらず、声を上げているのはネルソン氏を含めて一握りの人々にすぎない。
「ベトナムを語れるようになるまで18年間かかった。帰国後、自分は変わっていないと信じていたが、他人には奇行が分かる。毎夜の雄たけび、いら立ち。妻は夜中、ベッドから出られなかった。夜になると、心がジャングルに逆戻りする私が襲いかねないからだ」
「退役軍人局は眠り薬をくれただけだったが、私はその後、名医に出会えた。ラッキーだった。しかし、多くの者はいまも麻薬や酒におぼれる。私の属する『平和のための帰還兵たち』の調査でも、全米8割の路上生活者がベトナム帰りだ。イラクにいる若者たちも早晩、同じ境遇を経験するだろう」
 1996年にネルソン氏は、約30年ぶりに沖縄を訪れた。昔、地元の女性やタクシー運転手を平気で殴った。でも、基地に一歩でも入れば逮捕されない。

■現地の人間はネズミと同じ
「基地の司令官は日本の当局に形の上では謝罪していたが、本音では“野蛮で理性のない理想的な海兵隊員に仕上がった”と喜んでいたはず。ジャップ(日本人のべっ称)もラッツ(ネズミ)と同じとみんな思っていた。ちなみにイラク人は“砂漠のサル”。人間以下という認識では同じだ」
 その日本から第2次大戦後、初めて戦地に自衛隊が派遣される。
「日米同盟と小泉首相は言うが、それはただの勘違いだ。基地を見ればいい。同盟じゃない。日本は米国の占領地だ。彼は白人になりたいのかな。でも、それは無理な相談だ。米国しか頼りにできない? どうして中国や韓国、アジアとの関係を築けないのか」

■ブッシュの犯罪放置させない
「憲法9条は美しい。私は最初読んだとき、これはガンジーかキング牧師が書いたのか、と思った。9条は日本人を戦争から守ってきた。今度は皆さんが9条を守る番ではないか」
 米国では大統領選が近づいている。日本の自衛隊派遣は最近、防戦一方のブッシュ大統領にとって再選へ向けての最大のエール、とネルソン氏は話す。
「ブッシュは再選するかもね。ただ、支持率ははるかに落ちてきた。私は戦場で人々を殺し、多くの戦友の死も背負っている。再選しようがしまいが、生き残った者として彼のような戦争犯罪人を放置させない義務を負っている」
 AP通信によると、昨年自殺したイラク駐留米兵は21人で、18人が陸軍、3人が海兵隊所属。自殺率は10万人当たり13.5人で、2002年の陸軍全体の自殺率10.9人を大幅に上回る。
 米軍は精神医療専門家からなる調査団を現地に派遣。米誌ニューズウィーク最新号によると、調査団は原因として戦闘のストレスや心的外傷後ストレス障害(PTSD)が広がっているうえ、身近に銃器がある環境も指摘。専門家は「非戦闘中の死者10-15人をなおも調査中」としており、さらに多くの兵士が自殺している可能性もある。
 深刻なのは、兵士の帰還後の自殺や家庭内暴力、薬物・アルコール依存症だ。ベトナム帰還兵のうち、自殺者は6万-10万人にも上るとみられている。
 イラクに派遣される自衛隊にはどういう事態が予想されるか。軍事評論家の神浦元彰氏は「自衛隊員は戦闘の極限状態を想定した訓練を受けていない。例えば戦闘に巻き込まれた場合、激しく損壊した遺体をどう処理するのか。また米兵は負傷して痛みをこらえられなくなったときに備えてモルヒネを携帯しているが、それを持たない自衛隊員はどう対処するのか。訓練していないだけに、現地の状況が悪化した場合、自衛隊員が受ける不安とショックは米兵以上に大きくなることが懸念される」と話す。

アレン・ネルソン
1947年7月、ニューヨーク・ブルックリン生まれ。貧困家庭に育ち、高校中退後、18歳で海兵隊に志願入隊。翌年、ベトナム戦争の最前線に派遣された。70年1月に除隊するが、精神的後遺症に悩まされ、一時は路上生活者に。平和運動家の精神科医から治療を受け、18年間かけ回復した。平和主義のクエーカー教徒として「戦争と暴力」をテーマに講演活動を続ける。著作に「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」(講談社)。長男と長女は独立し、ニューヨークで妻と2人暮らし。

 このような本を書いたネルソン氏は金武町のキャンプ・ハンセンに勤務後、ベトナム戦争に参加した経験がある。
 その彼は2009年3月にガンの一種である多発性骨髄腫で逝去された。この場で冥福を祈ると同時に、愚か者のブッシュや拘束主義主観のバカたれどもにこの本を読むことをお勧めする、当然ながらお間抜けネオコン族どもにもだ。
 ネルソン氏の証言によると沖縄では白人と黒人との差別は軍体内ではそれほどなかったものの、外部ではあったと言うのだ。今回の北朝鮮のミサイル騒動でもはかなくも米軍基地問題がクローズアップされたがこのことも関係する。好戦的だったネルソン氏があるきっかけで変わったかは本を読むことをお勧めしたい。だが、我々はアメリカの光ばかりを見てはいけない。
 ネルソン氏がはかなくも暴いた影をも見るべきである。


2012年07月11日
「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」(大田南畝)
 今回の「かく語りき」は大田南畝の「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」を取り上げる。
 松平定信の寛政の改革と称するものは実態として完全なる思想統制だった。太田はその実態を痛烈に皮肉ったのである。東西どの国でも同じような話はある。たとえば、フランス革命である。最初はルイ16世夫妻との共存を大切にしていたが権力や主導権などさまざまな要素が重なり、改革勢力の急進化で主導権を握ったロベスピエールによるおぞましい独裁政治が行なわれた。政敵やルイ16世、マリー・アントワネットをギロチン台に送り、キリスト教までも弾圧した。
 だが、あまりにも過激な政治への反動は大きかった。ロベスピエールが皮肉な事にギロチン台に送られる結果になったのだ。

 フランス革命はその後何度も行なわれた。
 そして、自由と平等と言う言葉はようやくこの50年間で本物の言葉になってフランスに根付いたのである。さて、件の論争に関して私からも統括して述べておきたい。自由と言う言葉と責任と言う言葉は同意なのである。すなわち、自由にやる事はそれだけ責任が必要である。
 社会は「いやだけど認める」「これは絶対にいやだ」というものがある。これは人の属している立場などによって異なり、それを人に押し付けるのでは完全なるディストピアでもある。ちなみに私はアンチ読売だがこのブログは読売ファンでも受け入れる。そこまで介入してもばかげてると言うのが私の信念だ。
 何が何でもこうじゃなくちゃダメなんだと形にはめ込むやり方は正しいといえるのだろうか。私には間違っているとしか思えない。それではあのオウム真理教の世界と全くなんだ一つ違いがない。児童ポルノ問題にしてもそうだ、今やアニメからいかなる裸のシーンですらも排除されている。だが、排除したからとてもその差別構造が消えない限り問題は解決できまい。1900年に12歳以上の男女の混浴を禁止するという内務省令で男女別の温泉ができたがこれとても朱子学によって押し付けられた思想に過ぎない。それ以前は男女混浴だった事実がある。結果セクハラだったといえるのだろうか?
 セクハラはあくまでもこころの問題に過ぎない。私はいかなる公序良俗に反するサイトへリンクはしない方針だが、他人に迷惑をかけない程度ならば厳しい姿勢は示さない。清潔すぎる社会は人間のブロイラー化を意味し、ブロイラーは安易に病気がちになる。


この記事へのコメント
フリスキーさんも、ご指摘された“行き過ぎた潔癖”の恐ろしさ…、これは日頃、小野哲さんも警鐘を鳴らしてみえる様にポルポトやスターリン時代に見られる粛清に繋がります。フリスキーさんは、更にご自身のブログで小野哲さんと同様の内容をこう記されてみえます…、『“真面目すぎる”“清潔さを求めすぎる”という点の超克に依然として左翼の課題があるのではないかと
私は考えました。』
『教義は大事です。神学は大事です。しかし、やがて教義も神学も超えて、人間的にならざるを得ないんですよ。』
やはり何ごとも、“程の良さ”というのがあるんですよ…、小野哲さんとフリスキーさんがご指摘された“原理主義的”“教条主義的”な考えに固執すれば、どうしても排他的になり、人間性を無くしてしまうという、矛盾に陥ってしまうんですね…。わたしは、小野哲さんが以前述べられた様に、日本共産党に於ける、“民主集中制”や“査問制度”に疑問があります。どうしても閉鎖的にわたしの目には写るんです。こうゆう批判をするだけで、“反共だ”・“反党分子だ”などと畳み掛けてくる体質が昔ありました。せっかく正しいことを主張していても、その組織に“人間性”が感じられないと支持の裾野が広がらないんですね…、たいへんにもったいない…。ある意味、左派の弱点が、秋原葉月さんのブログにおける件の論争で、小野哲さんとフリスキーさんの論を見させて頂き、改めて考えさせられました。結果、わたし自身も虚無感に苛まれました。
やはりイデオロギーに固執し過ぎると、右、左…問わず本来あるべき姿から、遠のいてしまう、乖離してしまうという残念な結果になるんですね…、自戒を込めて…。
小野哲さん…、ありがとうございます。また色々とお教えください。

Posted by 青い鳥 at 2012年07月11日 09:35

 
 青い鳥様へ
 前回のエントリーはそのフリスキーさんの言葉からインスパイアされて打ち込んだものです。
 まじめである事を否定するのはいけませんが、他人にまで押し付けてもいけませんよね。正直に言って私も今回の議論でかなり疲れました。ですが、デヴィのようなバカモノがいる限り私の怒りは止まらないのでしょうね…。
 ヤマダ電機がベスト電器を買収するようですが、これとても独占禁止法に抵触します。ですが歪んだ人間は押し通し、極左はなにもやらないのが現実でしょう。日常生活に根ざした活動ができていないんですね。


2012年07月29日
「ママのおっぱいでも飲んでいるがいい」
 北野武に関して言うなら、私はこれまで徹底的に批判の鉄槌を下してきた。
 だが、今回のコラムはそんな北野信者どもにもきつい一言になる。「ママのおっぱいでも飲んでいろ」ということだ。北野はテレビ朝日で「たけしのブラックホスピタル」(私に言わせるとパニックホスピタル(しかも万害あって一利無し!!))をやっているが、かつてフジテレビでこんな馬鹿なことをした。Wikipediaより引用する。
 
亀有ブラザース
 たけしがヴォーカルとなり、たけし軍団の手下どもによる生バンドを率いて歌を披露する(キーボードは、たけしがCDを出していた縁でビクター音楽産業の小池秀彦ディレクターが多く担当した)。このコーナーを担当していたのは放送作家の小泉せつ子で、替え歌のほとんどを手掛けていた。オープニング(『ザ・ヒットパレード』のテーマの替え歌、『ヒットパレード』の部分を「引っ張れ」とかけて男性器などの俗称など(例・「チ○ポを引っ張れ」と歌う替え歌)以下、すべて下ネタによる替え歌。1992年7月19日未明の『FNSの日スーパースペシャル1億2000万人の平成教育テレビ』での深夜スペシャル枠(『北野武の平成ファンクラブ』)においても、かまやつひろし、玉置浩二らをゲストに迎えて亀有ブラザーズが生放送されたが、その時もほとんど観る人がいない通常の放送時同様にビートルズの"Let it be"を替え歌にして延々「アトピー」を連呼し、これを観たアトピー性皮膚炎の患者団体から抗議がきた。

 こんな体質の北野だから、アイヌ民族を誹謗中傷する馬鹿な出し物を日本テレビで放映させて平然としていられるのである。

1994年、元日夜に放送された『北野武政界進出宣言!?ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』(日本テレビ)の中で、梅垣義明を筆頭にメンバー9人が金粉を全身に塗り、コテカと半纏をまとい、腰を振って踊りながら「イヨマンテの夜」を歌った。その表現に対し、アイヌ民族の団体「レラの会」等が、差別的であるとして日本テレビ本社へ抗議に訪れた。

 そんな男のどこに芸術を語る資格はあるのか。あろうがことかNHKBSで美術番組をやっているらしいが私は北野の品位のない顔を見るのが嫌なのですぐに部屋にこもるか、読書でもしている。そんなクズを美術番組の司会にするのなら、ベニシア・スタンレー・スミス女史に司会をやってもらったほうが数段いい。
 北野は今までも原発安全神話持ち上げの共犯者であることやオウム真理教布教に協力した最大の戦犯であることが明らかになっており、今すぐ芸能界はもちろん社会的に抹殺されるべき犯罪者である。そういう愚か者を持ち上げるみなさんも、いつまでも寝ぼけた夢を見ているんじゃないと言いたい。更に北野はこの罪を償うには私財をすべて提供し、福島第一原発の後始末でもしろと佐高信氏に痛烈に論破される始末である。
 北野には「ママのお仕置きよりきついお仕置きでも味わえ」と言っておこう。