2013年11月3日日曜日

仕事の現在


 現在私はとある会社に所属し、そこから派遣される形である会社で働いている。
 そこは日々が試行錯誤だが、私は私にできる全力を尽くすまでしかないと思っている。今は泣いてなんかいられないからだ。一通りできても、まだまだ認められるような努力とは言えないのでがむしゃらに頑張るしかない。人生の歯車が動き出したのだからだ。課題は解決して改める為にある。ゆえに仕事に私情は挟めないし妥協もできない。非情になれということだ。だから、日々が考えさせられる事ばかりだ。それでも、自分の原点は見失いたくはない。今の仕事場が様々な意味で考えさせられるのは様々な背景を抱えた他人(ひと)が様々な形で関わってきているからだ。その中で全力で前に進まなければ強くなれないということをわかっているからだ。
 精神疾患当事者として思うのだが、あのシンデレラの継母を単に悪人ととらえてはいけない。ゆがむ原因があったのだろう。その原因を考えることが大切だ。継母もなんだかの精神疾患だったのだろう。ストレスもあったのかもしれない。ストレス回避は精神疾患の改善には欠かせない。精神疾患当事者を侮辱するつもりはない。だが、それでも犯してはいけないことはある。法を犯すことや個人情報の無断閲覧だ。私はやるつもりもないし知っても詫びる癖がある。他人(ひと)の世界に土足で入り込むのは嫌だし、もし私がやったら詫びる。
 どこまで人に接すればいいのか、どこまで人に好意を伝えればわかるのかということで私はしんどい経験をしている。安易に愛については言えない。そこにどんな人生観があるかが人を強くする。他人(ひと)を好きになる事は他人の過去すらもまとめて受け止める覚悟がいる。軽い気持ちでは話せないし怖い。人の美しさはセクハラサプライズよりもありのままで分かる。他人の異論は面白いしそこから学ぶ度量を持ったうえで物静かな環境下で自己再構築をやっていこうと思う。
 発達障がい当事者の時間を一言で言えば犬のような時間と猫の時間が両存しているようなもので、それが極端な形で表れやすいのだ。この違いは男女だってそうだ。それを受け入れる度量がないと意味はない。徐々に体質を変え、前に前に突き進んでナンボでいい。それが1ミリ単位だっていい。命は生まれいつかは消えていく。陽炎のような人生なら力強く駆け抜けるだけだ。ただ、「頑張れ」はいらない。共にこの時代を乗り越えようと頑張る戦友(とも)だからだ。全力疾走出来る時もあれば休む時もある。何人かどうだか知らないが、中身でしか私は見ない。肌の色でガアガア喚く必要はない。
 私は一応正規雇用となったが次のゴールはすでに定めている。それには前向きな意識が必要になってくる。世界陸上だ、甲子園だ、それが何だか知らないが自分の全力を尽くすまでだ。次なるゴールを定めたら、課題が山積しているのに気が付くだろうがやるまでやろう。課題が多くても泣いてなんかいられない。ゴールは一つでも未来の答えは一つとは限らない。見えない明日への不安はある。しんどいけれどやるしかないと思う反面孤独感を噛み締めてもいる。生きる意味を真摯に向き合った事がないならやるしかない。緩やかに、そしてしなやかに。全力で駆け抜けた後にどんな光景があるかは分からないが期待したい。敢えて厳しい環境で自分を磨かないと人は強くなれない。日々のプレッシャーは恐ろしい。
 ある意味思うが、成果を出すことよりも維持する事が実力者なのかも知れない。何もなければ自分で創ればいい。それは苦しいけれど、何もないよりはマシだ。ジャイアンものび太もスネ夫も私にとってはイヤだ。自分自身が不完全と分かっていないからだ。自己の成長には努力がいる。だが成果も大切だがそれが独り歩きするとろくな事はない。チャップリンの殺人狂時代の現実化だ。『数が行為を神聖化する』だ。相手に己の条件を呑ませようとする奴は飲んでくだ巻く人民派で相手にはしない。そうした輩、すなわち強者の論理で弱者の痛みを理解しようというのは無理な論理だ。そして文化と文明は別物だ。心の有無であって今は『文化』と称する文明だ。
 自分は何がしたいのか、鮮やかなコンセプトがないと明日は見えてこない。


 今回はmixiつぶやきをベースに軽めにコラムにさせていただきました。