2014年4月26日土曜日

本田技研工業を潰そうとした通産省




 本田宗一郎が浜松で立ち上げた本田技研工業は今や世界のホンダになっている。
 だが、本田にはもう一人の相棒がいた。藤沢武夫である。彼は本田の資金繰りを支えたことで知られている。
 その本田技研工業がバイクから自動車に参入したきっかけは1961年5月の通産省による特定産業振興臨時措置法案、「特振法」の制定構想だった。
 通産省は産業自由化を控えて自動車行政の基本方針として国際競争力の弱い自動車、鉄鋼、石油化学の3分野を特殊産業と指定し、行政指導によって産業規模の整理統合を行おうとした。
 自動車産業については既存企業の合併を推進し、国際競争力を高め、新規参入については法律で規制しようという構想だった。

 ①量産車グループ=トヨタ、日産、マツダ 
 ②高級車、スポーツカー、ディーゼル車などの特殊車グループ=プリンス、いすゞ、日野 
 ③軽自動車グループ=富士重工、マツダ――
 の3グループに集約し、新規参入を制約するという統制色の強い政策だった。

 だが、これに反発したのが本田だった。
「特振法とは何事だ。おれにはやる権利がある。既存のメーカーだけで自動車をつくって、われわれがやってはいけない法律をつくるとは何事だ。自由である。大きなものを永久に大きいと誰が断言できる。歴史を見なさい。新興勢力が伸びるに決まっている。そんなに合同させたかったら、通産省が株主になって、株主総会でものを言え・・・・うちは株主の会社であり、政府の命令で、おれは動かない」(「本田宗一郎夢を形に:私の履歴書」日本経済新聞社)
 そうだろう、新規参入のない業界がよどんだ空気なのは当然だ。プロ野球を見よ、読売新聞による恐ろしい腐敗体制が続いているではないか。
 そこで1962年に軽トラックと小型スポーツカー「S360」を発表し、63年には小型高性能なエンジンを搭載した小型スポーツカー「S500」を発表。
 小型車に焦点を絞ったホンダの本格的な四輪車は67年発売の「N360」で、初の本格的な空冷自動車だった。これはオートバイで熟知していた空冷2気筒を採用し、馬力、最高時速でそれまでトップだった富士重工のスバルを抜き、居住性を高めた「ユーティリティ・ミニマム」のコンセプトを取り入れたものだった。
 しかも発売価格は31万3000円という低価格を実現、発売と当時にたちまち軽自動車販売のトップになった。

 もし、あの時規制が行われていたら、ホンダは今頃世界で有名になっていなかった。
 光岡自動車もある意味新規参入している。
 今は、電気自動車を普及させるべき時期に来ている。エンジンを交換するタイプの電気自動車の開発を政府は行うべきだ。