2016年3月12日土曜日

命、そしてその倫理観を真摯に受け止められるかが問われている

 






 今回の動画につきましては、年齢制限がかかっておりますので一部の方は閲覧が難しくなっております。
 ご了解ください。なお、拙ブログではわいせつを容認しません。

 2010年にドキュメンタリー映画「うまれる」が上映された。
 今回の動画は豪田トモ監督夫妻の出産を包み隠さない形で取り上げている。その続編が2014年公開された。「うまれる ずっと、いっしょ」である。この作品の中では血のつながりのない息子を育てる父親、最愛の妻を失った夫、不治の障害を持つ子供を育てる夫婦といろいろな形の家族が出てくる。
 私はこの動画などを見て思う、「聲の形」や「ドメスティックな彼女」、「四月は君の嘘」など、どうしてそこまでのクオリティにたどり着くことはできなかったのかと。商業主義により、今やこのような美しい作品はどんどん置き去りにされていく。さらに営みとしての生はいつの間にか余計なものさえくわえられて過激化されていく。
 命の倫理観、それとは何かを考えねばならない。

 この問題は最近取り上げられたIPS細胞問題にもつながってくる。
 この治療方法はある意味画期的とはいえ、もう一つの問題として生命倫理が絡んでくる。 生命に関する倫理的問題を扱う研究として生命倫理学がある。生物学、医学、薬学、政治学、文化人類学、法学、哲学、経済学、社会学、心理学、宗教学など様々な分野と関連がある。ヒトの生命すなわち人命に限らず、動植物など全ての生命体を対象とするもので、すぐに答えや結論が出る代物ではない。
 だが、最近のコミックはみんなそのことがすぐに結論付けられるようである。それでいいとは私には思えない。もし、手塚治虫氏がおられたらあまりの軽薄さに頭を抱えて嘆くことは間違いない。そう思えるのも「ブラックジャック」でその一遍はわかる。

 『ブラック・ジャック』第29話「ときには真珠のように」で、名医になったブラック・ジャックの家に突如、奇妙な殻に包まれたメスが届く。宛名には「J・H」と書かれており、それがブラック・ジャックの恩師であり命の恩人でもある本間丈太郎から届いた事に気付く。彼は幼少期に不発弾によって体がバラバラになったブラック・ジャックを何とか救い出し、彼が医者になるきっかけを作った命の恩人である。ブラック・ジャックは急遽本間の家へと急ぎ、布団で寝たきりの本間を見舞う。
  そこで本間は昔、ブラック・ジャックの手術中に体内にメスを置き忘れ、再び手術をした際、カルシウムの殻につつまれたメス、すなわちブラック・ジャックの元に届いたメスを発見した事を話し懺悔する。本間はその事がきっかけで生命の不思議さと医学の難しさに気づいたのである。
 懺悔を終えたあと、彼の意識は段々と遠のき、「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね」と言い残して意識を失う。
 ブラック・ジャックは彼を近くの病院へ搬送し、手術するものの彼の意識は戻らず、ほどなく死亡が確認される。老衰、つまり限りなく自然に近い「人の死」だった。完璧な処置をしたにもかかわらず恩師を救えなかったことで、悲嘆に暮れるブラック・ジャックに、彼の幻影は再び前述の言葉をかけるのだった。

 この話を、講談社の関係者全員は真摯に受け止めてほしい。
 いや、すべての私たちもである。今の在り方でいいのかを、考えないといけない。