Being a disabled person is inconvenient, but it doesn't mean that I'm not happy.
(障害は不便である。しかし、不幸ではない/ヘレン・ケラー)
今回は、ヘレン・ケラーの名言からコラムを書きたい。
私は発達障がいについて今までしんどい思いをしてきた。だが、決して不幸だと思ったことはない。
その不便さにやるせなさや悔しさを何度も噛み締めてきた反面、真っ向からルール違反を厳しくとっちめるようにしたことで、自分らしさを最後までルールに従いながら貫いたことを誇りに思う。
幸いにして、私は多くの人との巡り合いにより、今の境遇を手にすることができた。
だが、世の中はそうはうまくいかない。
様々な精神疾患が原因で外にでることが厳しく、ひきこもらざるを得なくなった人もいる。
働きたくても適した仕事に辿り着けず、不満を抱えて生きている人がいる。
そんな人達に対して、今の私はプロとして全力で尽くしているといえるのだろうか。
ヘレン・ケラーも同じ思いだったのかもしれない。
彼女の場合、たまたま周囲の教育などがあって社会的な自立を果たした。張力・視力・言葉のない三重苦のうち、話すことについてはクリアし、その生涯を自身と同じような苦しい人達のために捧げた。それ故に男女同権論者として婦人参政権、避妊具の使用を主張した。また、人種差別反対論者であり、過酷な若年労働や死刑制度、そして第一次世界大戦の殺戮にも反対した。これらの活動のため、彼女は FBI の要調査人物に挙げられている。最初の訪日の際には特別高等警察の監視対象になっていた。
逆に言えば、民主主義の申し子そのものなのであり、彼女の活動は今で言う自民党にとっては目の上の瘤のようなものなのである。
今、私が目指す次の目標は明確だ。
私をいわば踏み台にして、多くの障がい者たちが社会に出て挑戦する時代を待ち望む。そうすることで、社会は弱者にとっても優しくなる。
私の知り合いは、妻の出産後子育てに関わるようになったが「バリアフリーが便利だと思った」というまでになった。
そういう社会は優しい社会でもある。だが、同時に甘えすぎてもいけない。