私は今までネット空間を見てきた。
ネット空間の使い方を知らない輩が最近増えてきている。そういった輩にとってFacebookも、ブログも、Twitterもオモチャ感覚なのだが、そこによって発せられた言葉に翻弄されて人生をずたずたにされている人達が多くなってきている。
しかも、その中には悪質なヘイトスピーチを繰り返してコメント数が3000以上も殺到するほど突っ込まれているケースが有る他、ヘイトスピーチ狙いで無断で漫画の肖像権を引用し、アメーバブログを連続18回強制退会処分になってもまたしても再入会というなんとも信じられない実態がある。しかもそのバカウヨはどこに住んでいるのか、本名までも自分から暴露するというなんとも信じられない醜態を披露する始末である。
明らかな学習障がい(発達障がいの一つ)の疑いがあるのだが、周りの取り巻きのバカウヨ共は彼に対して『お前、まずいよ』とたしなめることが出来ていない。そういう意味で彼は不幸としか思えない。もし、彼の周りにたしなめる人がいればここまで暴走することはない。最近では高校教師を自称し、ヘイトスピーチを放置するブログが有るのだからどうしようもないほどだ。
その一方でサイバーカウンターにしても、一部の過激派によって暴力が正当化されているのだからやるせない。それに引きずられるようにリベラルの中からも「お前の愛国は中国製」「どっかの国の独裁者」などと差別を先導しかねない発言が相次いでいる。
それほど、サイバー空間が荒廃しているのだと言わざるをえない。
言葉には力がある。
その言葉の怖さや重みをあまりにも軽く見ているとしか今の人達は思えない。私は大今良時の『聲の形』を厳しく批判してきたが、バカウヨ共はただ単に言葉で遊んでいて信念のない批判もどきに終止していた。
だが、彼らは批判によって何を得たのだろうか。何も得られていないのが現実だ。何も得られていないのに彼らは不平不満ばかりを口にする。
ならば私から言おう。『君達の手で何かを作ったことはあるのか』と。私はあるNPOと出会い、イベントの実現に協力したり、ボランティア活動に参加したりしている。だが、それを私は誇りには思わないし鼻高々とは思いたくもない。当然のことをしたまでの事にすぎない。
自分の行動で何が生まれるのかを踏まえて、自分の行動信念と照らし合わせて行動すべきなのが民主主義のもとで許される振る舞いだ。サイバー空間における言動も、同じことが言える。
その言葉によって何が生まれるのかを考え、行動すべきではないか。
山口県光市で起きた『母子殺害事件』(事件の実態が暴行致死事件であるため、拙ブログでは光市母子暴行致死事件と指摘)で多くのバカウヨ共が被告人を死刑に処すべきと喚いていたが、その事件の背景に発達障がいがあるとわかった段階で、明白に死刑にする理由はなくなったと言わざるをえない。それが国際法の常識なのである。ましてや殺人事件ではなく暴行致死・性的暴行ならばどう考えても死刑ではなく終身懲役刑が最高刑である。
大阪市で起きた姉妹殺害放火事件でも逮捕された被告が発達障がいだった。彼は死刑判決を何もためらいなく受け入れ、反省することなくいわば鼻歌を歌いながら絞首台に登った。被害者遺族は彼を死刑にするよう要求していたが、結果として虚しさしか残らなかった。それで憎悪と虚しさ以外の何が遺族に残ったのだろうか?
それを煽ったのはバカウヨたちなのではないか。バカウヨ共や死刑を存続させるべきだと言った輩達は被害者遺族の死ぬまで残る虚しさにどう向き合うのか、真剣に考えてもらいたい。
ネットが開放された時、市民たちは情報を自分たちの手に取り戻せるという希望を持っていた。
しかし、今のネットは明らかにヘイトとデマ、下半身、ギャンブルなどの欲望が大手をふって歩いている。それで何がいいのだろうか。何も得られないまま終わってしまう。