この作品は出版された当時は『高貴な家の令嬢に読ませてはいけない』というほどスキャンダルな作品だった。だが、この作品の登場人物が後に問題になる。ロチェスター夫人のアントワネット・バーサである。
『ジェイン・エア』では酒乱で精神を病んでいると設定されていたが、この描写に疑問を持った作家のジーン・リースは『サルガッソーの広い海』で何故彼女が追い込まれていったのかを描いている。彼女はイギリス植民地・ジャマイカ出身のいわゆる白人(クレオール)だが、植民地支配が終演を迎えつつある中で没落していた。その中で『白いゴキブリ』呼ばわりされていた。
そして持参金狙いでイギリスの貴族の次男坊を結婚させたのが義理の父親(母親アネッサと再婚したメイスン氏)である。次男坊こそがロチェスターであることは言うまでもない。何しろ結婚当初から走法の文化的背景は水と油に等しかったのだから。そして、アントワネットは次第に追い込まれていくのである。理解者は夫に追い出される、夫との文化的背景の違いによるギャップ。
(C)BBC 2006
ちなみに『サルガッソーの広い海』ではジェイン・エアは出ていない。
そもそも、出す必要はないと思ったのだろう。私はこの数ヶ月間、大今良時氏の『聲の形』(講談社)を厳しく批判しつけて、ファナティックなファンから誹謗中傷されてきたが、彼らにこそ、この両作品を読んでもらいたい。『聲の形』と構造が極めて似ているとすぐに見抜けるではないか。
難聴当事者(西宮硝子)、発達障がい当事者(石田将也)が『ジェイン・エア』でのアントワネットに置き換わったのにすぎない。
何故このような欠陥が出てくるのか。
私は日本の教育に深刻な問題があると思う。
今までの日本は企業の即戦力育成ばかりに専念していた。しかし、それは韓国の成長によりもはや通用しない。仕事ができること、出来なかったとしても人としてどう生き抜き、歩み寄れるかが問われている。そういったことは誰でも分かることなのだが、それを認めたくない者達は現実逃避を繰り返す。『反日』や『在日特権』なるあり得ない妄想をでっち上げ、現実からいつも逃げているだけにすぎない。
そういった言葉の背景にあるのは、おぞましいまでの優生思想である。ナチス・ドイツどころか、戦前の帝国主義そのものを正当化するおぞましい発想である。そんなことを容認している作品を、どうして私が認めることができるのか。
この優生思想は昨年7月に起きた相模原・障がい当事者虐殺事件にも関係しているのだ。絶対に容認してはいけない。
『聲の形』で優生思想丸出しなのは植野優花、硝子の父とその祖父母だが、そればかりではない。見えない優生思想として、位置づけられているのがいじめだったのではないか。そのことに対する道義的な責任を石田将也以外に誰が取ったのだろうか?私が見たところでは誰も取っていない、反省すらもない。
それでいいとは私には思えない。大今良時氏はこの作品を作る際に取材したと言うが、本当に取材したのか、いかがわしい。いや、講談社にとっては取材したつもりなのかもしれない、そうならば、今やバカウヨに成り下がったケント・ギルバートのヘイトブック=ジャンクブック(販売する価値すらもないクズ本)を販売しないわけがない。
1986年に上映された映画『やがて…春』ではちょっとのろまな少年と山形から転校してきた少女がいじめられた。
これも、マイノリティへのいじめの口実を探しこみ、『のろまだから』『山形から喜多から』というくだらない理由でいじめていた。こういったことは明らかな優生主義そのものなのだ。この映画は日活で配信されたが、今では有限会社滋賀県映画センターも含めて取扱がない。ぜひ、DVDでの取扱をお願いしたいと思う。
『聲の形』が障がい当事者の問題を取り上げていると思いこむのなら、山本おさむ氏の『どんぐりの家』(小学館)をお薦めする。この作品は難聴当事者と精神疾患当事者の重複障がい問題を取り上げている。続編の『どんぐりの家それから』では障害者自立支援法による経費削減によって追い込まれていく障がい当事者の苦境を描いている。山本氏と大今氏は一体どうしてここまで差が開いたのか。
ここまで言って、『聲の形』がいいというのなら、もう私は何も言う気すら起きない。
まだそらまめパパ氏のように優生学への危険性を認識し、批判者にも配慮する形で言論を交わす方ならば私は構わないと思うが、ファナティックなまでに信じ込む人たちはもっと危険だ。それは、在特会=日本第一党やシー・シェパードにもつながりかねないものだからだ。