2016年12月13日のテレビ朝日系の『林修の今でしょ講座』で『大河ドラマにしたい偉人』として上杉鷹山(1751年9月9日 – 1822年4月2日)が歴史学者の磯田道史によって取り上げられていた。
鷹山はアメリカ大統領だったJ.F.ケネディにも尊敬されていた。『政治家と言っても江戸時代中期の米沢藩(山形県)の大名で、大借金だらけの米沢藩に養子として向かい入れられたが、米沢藩の財政を立て直した』というが、実際はどうだったのだろうか。
当時の米沢藩の借金(借財)は20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)と言われ、その中で14歳で養子として向かい入れられた鷹山がした事とは、自らが率先した徹底的な倹約、武士は刀を鍬に持ち替え畑を開墾し、妻たちは内職をするよう奨励した。そのことで生産性があがり、また天明の大飢饉でも、備蓄が行き届いていた米沢藩は被害を最小限にする事ができたが、その中で問題があった。
1773年に起きた七家騒動は、鷹山の起用した家来の急激な改革路線への反発が招いたものだった。反発した家臣に切腹させるなど、鷹山のやり方は独裁というしかない。改革というのは、相手の理解を得ながらでなければ意味はない。要するに徹底した丸投げ路線というしかない。それで経営者なのか。尊敬されるべき人なのだろうか。明確な失敗である事は明らかだ。経営者は部下に任せる一方で苦言にも耳を傾ける、そして全ての責任を自分で担うべきなのだ。
そもそも、大河ドラマに欠けているものはなにか。庶民や弱者の声がまったくないから、強者や成功者の出世ストーリーに終わっている。それでいいのだろうか。軽薄極まりない中身に終わっているのは明らかだ。
そもそも、鷹山を尊敬しているという人たちは本当にそう言えるのか。まず、己のバックボーンを見てから弱者への眼差しを見直すべきではないか。都合の悪い箇所に目をつぶって鷹山になるというのはおかしい話ではないか。そもそも、鷹山は弱者を本当に大切にしていたのだろうか。私は鷹山の論理は強者の理論ではないかと思っている。
そんな人よりも、義民こそ私達は見るべきではないか。
鈴木 三太夫(すずき さんだゆう、生年不詳 - 貞享元年4月27日(1684年6月10日))は、江戸時代前期の相模国海老名郷大谷村(現・神奈川県海老名市大谷)の名主(庄屋)、義民。本名は三左衛門(さんざえもん)と言い、「三太夫」は死後に贈られた名とされる。
人物
大谷村は幕府領であったが、延宝2年(1674年)に旗本の町野幸宣が領主となった。町野幸宣のもとで農民の年貢負担は重くなった。天和3年(1683年)に子の町野幸重(生年不詳 - 宝永元年5月20日(1704年6月21日))が家督を継ぐが、年貢徴収はさらに厳しさを増し、凶作に伴って死者も出た。
名主であった三左衛門は、江戸幕府に直訴を企てたが、事前に密告されて捕えられ、貞享元年(1684年)4月27日に今里の代官所(現・神奈川県立中央農業高等学校の位置)で不当斬首に処せられた。三左衛門には子が二人いたが同罪として不当処刑され、事前に離縁していた妻も自害している。幸重に虐殺された父子の亡骸は妙常寺(地図)の住職に引き取られて同寺内に葬られた。
元禄14年(1701年)、幸重は父に対する親不孝を理由に改易処分を受けた(地元では「三左衛門の死後間もなく」「悪政が露見したため」改易されたと伝えている。なお、配流先加賀藩支藩にて宝永元年(1704年)死ぬ)。村人のために犠牲になった三左衛門は、地元で「三太夫」として語り継がれた。郷土史家中山毎吉は、「三太夫」は徳の優れた人物に贈った名(諡)であると推測した。
1938年には三左衛門の屋敷跡に「鈴木三太夫翁之碑」が立てられた。1952年には「鈴木三太夫霊堂」(地図)が建設され、1973年には大谷自治会によって「鈴木三太夫霊堂」内に「義民の碑」と題する顕彰碑が立てられている。1977年に海老名史跡探勝会が制作した海老名郷土かるたにもその事績がうたわれている。また、命日の4月27日には地元の人々による供養が行われる。
※Wikipedia鈴木三太夫及び一部情報追加
この三太夫をなぜドラマにしないのか。
売れないだけではあるまい、弱者の視点にクローズアップされることで今の安倍自称政権の暴政が問題であることを暴かれることを恐れているのではないか。
「反省」と「感謝」を安易に経営者や政治家が口にするのはいかがわしい。稲盛和夫を見るべきだ、彼は京都市を私物化していることがジャーナリストの斎藤貴男氏に暴かれている。