2018年6月24日日曜日

心の軸がない日本人へ

新約聖書 ルカによる福音書10章38~42
38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 今回選んだメッセージはルカによる福音書からである。
 最近、ブログを巡って議論があった。私はそのことについてどうこう言う気はない。ブログをしたければすればいいし、コメンテーターになりたければそれでいいと思っている。ただ、ブログを続けることはそれなりのエネルギーが必要になる。
 日々格闘記はアメブロ時代も含めると2006年から11年続いている。一時共同運営という形で対応していたが今は私の運営になっている。私自身が思想の軸に選んだのは護憲保守だが、最初の出発点は共産党にあることは間違いのない事実だ。それが、護憲保守の思想では大きな基盤になっている。
 共産党の思想で最大に取り入れたのは徹底的な合理主義と弱者への視線だ。それはまぎれもなく認めるし、事実だ。現実から何が必要なのかを冷徹に見て選び取ることが後は必要で、その観点で私は発言しているのにすぎない。その中で共産党の考えだけでは解決できないものがあると考えて現在の中で良い箇所を見つけ出しつつ、改善点を提案するという考えに至った。
 今回の言葉はいわゆる『ネトウヨ』に当てはまると言わざるをえないだろう。つまり、心の軸がない彼らは試行錯誤そのものを放棄し、安易に権力者の奴隷になることを選んだのにすぎない。ただ、それによる責任は彼ら自身に帰すものであり、私に来るものではないと警告しておく。
 また、騙される方の責任については伊丹万作氏のコラムを参考にしてもらいたい。

我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。
しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。

 この言葉は正しかったということである。