2013年10月20日日曜日

地方百貨店を考える 釧路2社の場合

 旭川の2社を取り上げたあと、釧路の2社を取り上げる。
 この2社も時代の波に翻弄されたと言う意味では悲惨な犠牲者である。

 地方百貨店を考える~釧路オリエンタルの場合~(小野哲)
テーマ:ブログ
2010-10-04 20:37:13



 北海道の百貨店は今や都市にしかない。
 もはや、無惨な状況下に今回取り上げる百貨店もある。釧路市にあったオリエンタルデパートである。店名をオリエンタルプラザに変更したバージョンで私はロゴマークを持っている。

1967年 4月に開業、同年11月16日 リニューアル工事実施。その後暫く所有権は三井グループが持っていた。
1975年 地下1階の飲食店経営であった東洋ビル開発㈱へビルの所有権が売却される。改修工事を実施。
1976年 11月 9周年を機に、商号を「オリエンタルプラザ」に変更。
1980年 百貨店業廃業。建物は現存しており現在は「オリエンタルプラザ」の名で飲食店ビルとして営業している。

 北海道の小樽、夕張、室蘭、釧路(私が調べた限りではだが)は百貨店が昔あった。
  その後、状況が一変して潰れたケースが大半だ。では、どうすれば地域再生ができるのか。私は企業の意識変革が必要だと断言する。目先の利益より、5年10 年の利益を重視し、正社員雇用が当然、法人税・所得税は堂々と納めるという当たり前の姿勢が今の企業には欠落している。
 そうしたルールに従って、人々の経済を構築するだけでも立派な社会貢献だ。利益を稼ぐ歯車と奴隷そのものの思想で見ているなら、もう終わりだろう。自律的な経済こそ、社会の安定に繋がる。

地方百貨店を考える~釧路・丸ト北村の場合~(小野哲)
テーマ:ブログ
2010-10-03 08:19:18


 今回も北海道の地方百貨店を取り上げる。
  鈴木宗男の出身地である釧路には丸井今井(丸三鶴屋、2006年8月20日閉店)、オリエンタルプラザ(後のオリエンタルデパート)、KOM(2006年 8月閉店)、そして丸ト北村という百貨店があった。今、その跡形は全くない。あるとすれば、国会図書館や地元の図書館の古い新聞資料だけである。



1906年 10月 初代創業者 北村藤吉が、前々身である古物商店を北大通2丁目(旧 西幣舞)に開店創業する。
1907年 現在地(北大通4丁目6番)に移転し、北村呉服店として開店。
1913年、1919年 二度に亘る西幣舞の大火に被災するも、その都度復興を果たす。
1937年5月 創業者死去(享年62)。二代目 北村藤兵衛が次期社長に就任。
1950年4月 株式会社化(株式会社 丸ト北村呉服洋品店)を果たす。
1955年 商号を丸ト北村に改称。
1967年 百貨店営業許可を取得。増改築工事の後、百貨店として開店。
資本金3,000万円。社長:北村藤兵衛 常務:北村藤一朗・北村和男・村上勘一 取締役:北村和子・菅原辰之丞
1980年代 増床工事等、大幅改装実施。
この際に、建物全体の外壁色も現在の白色になる。
2000年 2月29日に丸ト北村が閉店。
2000 年 9月23日、イオン釧路昭和SCが開店(現運営法人・イオン北海道)。10月31日には釧路シビックコア地区(釧路地方合同庁舎新庁舎)が開所。11 月30日には当時マイカル北海道が運営していた釧路サティの増床分とシネコンがオープン(現イオン北海道・ポスフール釧路)。その影響で翌年4月8日にス ガイビル内の映画館3軒が閉館。
2002年 2月11日に長崎屋が閉店。その年の8月25日にはダイエーも閉店。競争激化に加え、1月9日に太平洋炭砿が閉山、82年の歴史に幕を降ろしたことで市場の縮小に生き残れなかった。

  地方都市が衰退しかかった際に地方自治体はハコモノばかり作った。その結果、途方もないような凄まじい借金の山が残った。しかも、あくどい事に夕張市では UFJ銀行(現三菱東京UFJ銀行)とみずほコーポレート銀行が貸し付け、財政再建団体になれば優先して債権を回収した。
 地方都市の再生に、私 は移民受け入れを提案している。移民を受け入れると、言語関連ビジネスが売れるだけではなく、送り出し元の国との関係が良くなるわけで、Win-Winの 関係とも言える。そして彼らを対象にしたビジネス(ただし、治安に悪影響を与えたり、格安の賃金で搾取するのなら取り締まり対象である)が始まる。
 そうした形で地方都市を再生すれば、受け入れ元の経済も活性化する。むろん、受け入れ元の改革(需要に合わせた商品やサービスの提供)が必要であることは明白だが。