2013年10月20日日曜日

地方百貨店を考える 東急百貨店の場合

 東急百貨店は二つの地方百貨店を買収している。
 北見のまるいいとう、長野の丸善だ。




1914年3月11日 - 新潟県の士族に生まれた伊藤元治が奉公に出されていた北海道の呉服店丸井今井から暖簾に丸井を使う事を条件に独立。北見市に「いとう金物店」として創業。
5月11日 - 大火の火災に遭い店舗全焼。
7月15日 - 店舗を新築し呉服類を仕入れ「丸い伊藤呉服・金物店」として再開。
1915年 - 陸別町に陸別支店を設置。
1920年11月 - 北見店を2階建てに改築。卸部独立。
1921年7月15日 - 斜里町に斜里支店を設置。
1924年4月18日 - 東京都板橋区板橋に板橋支店を設置。北海道から本州に進出する。5月2日に東京都中央区蛎殻町に人形町支店を設置。10月15日に東京都足立区千住に千住支店を設置。
1925年12月17日 - (株)伊藤商店に改組。本社は人形町に。
1928年10月4日 - 陸別支店を廃止・譲渡。網走市に網走支店を設置。10月5日に 商号を(株)丸い伊藤商店に改める。
1929年 - 北見支店を増築し百貨店形態に改める。食料品卸部を移転。
1930年10月23日 - 板橋支店を廃止。
1933年 - 網走市・遠軽町に卸部出張所を設置。5月6日に本社を千住支店に移転。人形町支店を廃止。
1942年 - 遠軽卸部出張所廃止。
1943年 - 第一次企業整備令により斜里支店を廃止。
1944年2月 新興食品工業(株)を設立。7月14日に北見醸造(株)を設立。12月20日に第二次企業整備令により網走支店を廃止。
相内町(北見市)に相ノ内漬物工場を設置。
1945年3月14日 - 戦災に遭い千住支店焼失。
1947年3月11日 - 初代社長伊藤元冶死去。二代目社長に伊藤元一郎が就任。
1948年5月1日 - 北見支店2階に映画館「丸いシネマ」を開館。
1950年7月 - 金物部を設置。12月10日に北見機材工業(株)を設立。
1951年9月 - 「丸いシネマ」を(株)北見映画劇場として法人化し移転。10月に北見支店百貨店部を全館開放し売場を拡充。
1953年4月1日 - 神奈川県横須賀市に横須賀支店を設置。
1954年11月 - 第一回百円均一を開催。
1956年9月18日 - 通産大臣より百貨店営業が許可される。11月12日に千住支店・横須賀支店を分離、独立。再び北海道のみでの活動となる。11月15日 に百貨店部増築。
1957年3月7日 - 日本百貨店協会に加入する。
1960年4月1日 - 百貨店部に外商課を設置。
1961年2月 - 卸部内に飼料部門を設置。11月に釧路市に卸部出張所を設置。
1964年3月15日 - 百貨店部新館着工。11月14日に丸い食堂(株)を設立。11月17日に百貨店部新館開店。鉄筋コンクリート造地下1階地上6階、売場面積は約472万平方メートル。11月24日に卸部釧路出張所を増築。
1965年6月 - 社歌制定。
1966年3月15日 - 「(株)丸い伊藤商店五十年史」を発行。
1976年6月1日 - 白亜地下1階地上6階の新館を建設し開店。9月21日に全館開店。
1979年2月22日 - 丸井今井と業務提携を結び、役員を受け入れる。
1982年 1月期は61億3000万円の売上高を記録した。この年、きたみ東急が開業。
1985年9月12日 - 「きたみ東急百貨店」との業務提携が決定。イトーヨーカ堂北見店開店。街並も国道39号線にそって旭川方面へのびていき、郊外型の大型店・量販店の進出が続く。
1986 年3月 - 「きたみ東急百貨店」の開業により売上が急激に減少。末期は35億円台まで落ち込み、累積赤字は店舗を新築した際の長期借入金を含め60年1月末で16億 9000万円にのぼる。百貨店の閉店を発表。廃業にともなって、伊藤社長は経営の責任をとって4月の株主総会で辞任。従業員104人(うち女子64人)に ついては、廃業の時点でいったん退職してもらい、希望者はきたみ東急百貨店、北見バスなど東急グループと伊藤社長が経営する卸会社の丸い伊藤商店で再雇用 することになった。7月に百貨店閉店。北見駅前の一等地にある地下1階、地上6階建て売り場面積6717平方メートルの店舗は、東急に売却して累積赤字を 埋めることで合意。9月13日に百貨店跡がテナントビル「駅前プラザHOW」になる。卸部敷地に本社を移転。卸売専門の商社となる。後に帯広市の道東酒販 と合併し「株式会社道東伊藤」となる。
1992年 メッセ開業。
1995年 ダイエーと業務提携していた東武端野店がオープン。
1998年  百貨店跡の「駅前プラザHOW」閉館。取り壊し。
2000年 9月、北見サティが開業(現イオン北海道運営・ポスフール北見)。

 さて、この歴史をどう我々は考えるべきだろうか。
 皮肉な事に、きたみ東急はつい最近閉店となり、北見市が出資する第三セクターが北見市役所の一部機能を取り込みつつ、百貨店機能を維持している。
  そして、イオン北海道、アークス、コープさっぽろ、セブン&アイグループによる競争の中に北海道流通業はある。更にこうした世界にヤマダ電機や ビックカメラですらも飛び込む時代だ。ドン・キホーテになったら尚更だ。これでは丸井今井を支援している三越伊勢丹はまず脱落する。
 百貨店は時代の流れに取り残された。イオンですらもGMSの百貨店機能強化かディスカウントストアへの転換かで進めているのだ。このままでは生き延びる百貨店は3社から5社ではないかと思う。



 今回は長野丸光を取り上げた際にライバルとして立ちはだかった丸善を取り上げる。
 現在、丸善はながの東急百貨店と商号を変更しており、その姿 も影もない。Wikipediaでは項目はあってもロゴマークまではなかった。それで、私が取り上げようと思った。長野県を代表する信濃毎日新聞より今回 は参考にした(松本市のはやしやについては地域新聞から見つけている)。

1958年 創業。当初は「丸善」と称する地場資本で、店舗は長野銀座のみずほ銀行長野支店がある位置に建っていた。斜め向かいには同業の長野丸光(後に長野そごうへの商号変更を経て閉店、跡地は「TOiGO SBC」となった)があり、激しい競争を行った。
1961年2月 株式会社ながの丸善に商号変更。
1966年11月 長野駅前に店舗を移転。
1966年12月 株式会社東横(後の株式会社東急百貨店)と業務提携、資本参加を受ける。
1970年9月 株式会社ながの東急百貨店に商号を変更。

  このながの東急は長野電鉄にとって近代化のきっかけを招いた会社である。東急5000系(通称青カエル)を譲渡してもらった他、最近では8500系(ステ ンレス車両)を譲渡されている。地下に駅をつくった際にあまり燃えにくい車両を探していたら、ながの東急を通じて東急から青カエル車両を譲りうけたのであ る(ちなみに長野電鉄は来年4月以降にJR東日本から譲渡された253系を観光特急として運営する)。
 このケースは極端であるのだが、こんな ケースもあるのだ。地方百貨店をどのようにその地域の中で再生していくか、私達は考えるべきだ。高島屋は不振だった高崎と米子の店舗を閉鎖するのではな く、地域法人にして地域密着に徹した。その結果は経営再建につながった。百貨店再生のキーポイントはそこにある。
 ながの東急は今もロゴマークは本社の通称Qマークをつかっていない。それは地域に馴染んでいないと判断したのだろう。地域に根差すことこそ、小売の基本である。

 東急グループが丸井今井と比較してまともなのは、五島一族の排除に成功したからだと私は考えている。
 五島一族であっても、無能なら排除すべきと言うのが会社の論理である。絶対にトヨタ自動車みたいに豊田一族が支配するアナクロニズムなどありえない。まだしも、非上場企業なら話は分かるが上場しているのなら難しいものである。
 そうした疑問に答えて身を引いた石橋一族のブリヂストンを見習えといいたくなる。