2014年2月15日土曜日

パブロン中毒の「寓話的理解のすすめ」


 実は昨日、ある方のこのようなツイートに対して、下のように返信をいたしました。
 ご紹介したいと思います。

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「戦争は悪かったが戦死者は弔わなければいけないというジレンマ」については、そんなジレンマはないが結論。かの侵略戦争において、「日本人」という主体は日本人の死者を弔ってはならない。戦争責任というものを真面目に考えるのならば、我々は喪の不可能性のうちに生きなければならないはずなのだ。
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 はあ、そうでもないと思います。
 外国の死者のお弔いのほうを「先に」やって、しかも「重めに」やってから、自分たちのぶんを、それよりも小さめにやればいいという、それだけの話ではないかと、思います。
 中国の人も、韓国の人も、それに対してまで、どうこうおっしゃるようなことは、ないはずです。
 戦犯を拝んではいけないのは、そういう約束だからです。戦犯が悪かった、ほかの日本人は悪くないということにしてもらって、許してもらったのですから、当然の話です。
 さらに、本来ならば、帝国主義と侵略と共犯関係にあった神社を、存続させてはならなかったのです。単にマッカーサーが折れたから、残ってしまったというだけの話です。
 あれは、残っていてはいけないはずのものです。
 ですがそんなシロモノでさえ、中国や韓国の方は、「一般の日本人が、戦犯以外の人を参拝するなら構わない」というふうに、おっしゃいます。そういう方々を相手にして、さらに怒らせているのですから、どれだけ不義理をしているのかという、話です。

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 ここはひとつ、私の考えていることを、例え話のほうで、理解していただくということが、適当なのではないかと、思います。

 あるとき、50人の高校生を乗せた観光バスが、高速道路を走っていました。
 そのバスの前には、夫婦と子供2人を乗せた、普通乗用車が走っていましたが、その車の速度が遅かったので、観光バスの高校生たちは、「遅すぎる!」「なんとかしろ!」といって、文句を言いまくり、ペットボトルなどを投げつけたりしました。
 その乗用車は、型が古くて、あまり速度が出なかったので、ゆっくり走っていたので、別に悪気があったわけではありませんでした。
 そのうちに、「やめなさいよ」と言って止めようとした女子高生は、「嫌なら降りろ!」と言われ、ひっぱたかれたり、髪の毛を引っ張られたりして、いじめられたので、黙ってしまいました。
 ほかの生徒たちも、同じことをされるのが怖いので、黙ってしまいました。
 そのうちに、やんちゃな高校生たちは、「わざと低速で走っているんだ、嫌がらせをされている、これでは時間どおりに目的地に着けない」と言い出し、運転手に「なんとかしろ!」「思い知らせてやれ!」「俺たちの修学旅行が台無しになってもいいのか!」と言って、やいやいと責め立てました。
 生徒たちがうるさいので、運転手は、ちょっと脅かしてやろうと思って、後ろから小突いてみたら、大事故となり、乗用車は横転して、一家4人は亡くなってしまいました。
 さらに、バスの中でも、3名の高校生が亡くなりました。

 その後、裁判が行われ、被害者遺族は、「悪いのは運転手だから、運転手だけを罰してください」「高校生は子供だから、罪はありません」と言いました。
 そして、運転手は死刑になりました。
 さらに被害者遺族との交渉が行われ、同じように、「悪いのは運転手だし、高校生にも死亡者が出ているのだから、賠償金は払わなくていい」と遺族に言われたので、その条件で和解して、許してもらうことにしました。

 ところが、それからしばらくたって、高校生たちは、死刑になった運転手に対して、気の毒に思い始め、気が咎め始めました。
 そして、死んだ生徒たちのぶんと一緒に、運転手の神殿を作って、そこに拝みに行くようになりました。
 なんだかそうしないと、気が済まなかったのです。
 自分たちも悪かったのではないかと、ずっと思っていたので、運転手だけが罪を被って死ななければならなかったことで、死んだ運転手が「自分だけが悪いんじゃない」と、怒り心頭になって、生きている自分たちを呪っているんじゃないかと、祟られるんじゃないかと思うと、冷静ではいられなかったのです。

 そして、そのことが、被害者遺族の耳に入りました。
 被害者遺族は、「話が違う」と言って、怒り出しました。
 「あの時許してあげたのは、運転手だけが悪いと思ったからであって、君たちもそれを認めたではないか。どうして悪人を拝むんだ。もしかして、本当は、何も悪いことをしていないと思っているんじゃありませんか」と言って、生徒たちを責めました。
 それでも生徒たちが、拝むことをやめなかったので、被害者遺族は、「犯人である運転手の過去の交通違反歴記念館」を設立して、運転手の悪事を強調しました。
 すると、生徒たちは、「運転手さんをバカにするなんて、ひどい!」「おまえたちのしていることはいじめだ!偏見がある!」と言って、反発しました。

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 さて、この例え話には、中国との関係を、わざと意図的に、象徴して語ったことがらが、2つ入っています。
 中国人は、儒教の徒ですので、「国民が悪い考えを持っているときには、それは指導者が、悪い情報を与えているからなのであって、指導者に責任がある」という考え方をします。
 これを、「高校生」というふうに、例えてみたのです。
 中国人の目からすると、そういうふうに見えたので、「日本の人民」を許すことができたのです。
 「おまえらだって、当然悪いだろ」というふうにならなかったのには、そういう、彼らの基本的な考え方が、根底にあるのです。
 そして、「自分たちに代わって、罪を被った運転手がかわいそうだ=本当は、彼だけが悪いわけじゃないのに=彼は、怒っているんじゃないだろうか=そのうちに、怒って自分たちに祟るんじゃないだろうか」という考え方は、日本に特有のものであって、これは古来からある怨霊信仰です。
 この感覚は、外国人には通じません。
 「誰かが、気の毒な死に方をした=死んだだれだれさんがかわいそうだ=あの人に敬意を払って、手厚く祀ってあげないと、怒り狂って、祟るんじゃないか」というのが、怨霊信仰です。
 ですので、はっきり言いますと、東条その他の戦犯は、今や、この、怨霊信仰の対象者になったということなのです。
 ですから、日本人のやっていることは、平安時代と同じであると。もっと前から、そういうものはありますが。

 私が思うのは、相手が日本人ではない場合には、そもそもこれは通用しないから、わかってもらうことはできないということと、こちらが加害者の場合には、被害者の意向を尊重しなければならないということです。
 そして、外国との約束ごとは、必ず守らねばならない、一度決めたことは、筋を通さねばならないということです。日本人は、こういうことが、一番苦手なのです。
 「でも、あの人があまりにも気の毒だから、私たちはこうするよりほかにないじゃないか、きっと外国にもわかってもらえるだろう」というふうに思って、ずるずるずると、「既成事実」でなんとかしようとしてしまう、それが日本人です。
 われわれは、「西洋の文化にさらされて変わった」のではなくて、飛鳥時代とか平安時代と、まったく同じ原理で、振る舞っているのです。