2013年8月1日より、日々格闘記はGoogleという新たな世界に打って出ます。なお、熊本大震災・東日本大震災・鳥取大震災の被災者の方々にお見舞いの言葉を、亡くなられた方々には冥福を祈ります。拙ブログは社会的マイノリティとともに歩むブログです。よってレイシズム(極右・極左)及び優生学及びエコテロリズムなどの反人道的な行為や思想を許しません。
2014年2月15日土曜日
パブロン中毒の「寓話的理解のすすめ」
実は昨日、ある方のこのようなツイートに対して、下のように返信をいたしました。
ご紹介したいと思います。
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「戦争は悪かったが戦死者は弔わなければいけないというジレンマ」については、そんなジレンマはないが結論。かの侵略戦争において、「日本人」という主体は日本人の死者を弔ってはならない。戦争責任というものを真面目に考えるのならば、我々は喪の不可能性のうちに生きなければならないはずなのだ。
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はあ、そうでもないと思います。
外国の死者のお弔いのほうを「先に」やって、しかも「重めに」やってから、自分たちのぶんを、それよりも小さめにやればいいという、それだけの話ではないかと、思います。
中国の人も、韓国の人も、それに対してまで、どうこうおっしゃるようなことは、ないはずです。
戦犯を拝んではいけないのは、そういう約束だからです。戦犯が悪かった、ほかの日本人は悪くないということにしてもらって、許してもらったのですから、当然の話です。
さらに、本来ならば、帝国主義と侵略と共犯関係にあった神社を、存続させてはならなかったのです。単にマッカーサーが折れたから、残ってしまったというだけの話です。
あれは、残っていてはいけないはずのものです。
ですがそんなシロモノでさえ、中国や韓国の方は、「一般の日本人が、戦犯以外の人を参拝するなら構わない」というふうに、おっしゃいます。そういう方々を相手にして、さらに怒らせているのですから、どれだけ不義理をしているのかという、話です。
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ここはひとつ、私の考えていることを、例え話のほうで、理解していただくということが、適当なのではないかと、思います。
あるとき、50人の高校生を乗せた観光バスが、高速道路を走っていました。
そのバスの前には、夫婦と子供2人を乗せた、普通乗用車が走っていましたが、その車の速度が遅かったので、観光バスの高校生たちは、「遅すぎる!」「なんとかしろ!」といって、文句を言いまくり、ペットボトルなどを投げつけたりしました。
その乗用車は、型が古くて、あまり速度が出なかったので、ゆっくり走っていたので、別に悪気があったわけではありませんでした。
そのうちに、「やめなさいよ」と言って止めようとした女子高生は、「嫌なら降りろ!」と言われ、ひっぱたかれたり、髪の毛を引っ張られたりして、いじめられたので、黙ってしまいました。
ほかの生徒たちも、同じことをされるのが怖いので、黙ってしまいました。
そのうちに、やんちゃな高校生たちは、「わざと低速で走っているんだ、嫌がらせをされている、これでは時間どおりに目的地に着けない」と言い出し、運転手に「なんとかしろ!」「思い知らせてやれ!」「俺たちの修学旅行が台無しになってもいいのか!」と言って、やいやいと責め立てました。
生徒たちがうるさいので、運転手は、ちょっと脅かしてやろうと思って、後ろから小突いてみたら、大事故となり、乗用車は横転して、一家4人は亡くなってしまいました。
さらに、バスの中でも、3名の高校生が亡くなりました。
その後、裁判が行われ、被害者遺族は、「悪いのは運転手だから、運転手だけを罰してください」「高校生は子供だから、罪はありません」と言いました。
そして、運転手は死刑になりました。
さらに被害者遺族との交渉が行われ、同じように、「悪いのは運転手だし、高校生にも死亡者が出ているのだから、賠償金は払わなくていい」と遺族に言われたので、その条件で和解して、許してもらうことにしました。
ところが、それからしばらくたって、高校生たちは、死刑になった運転手に対して、気の毒に思い始め、気が咎め始めました。
そして、死んだ生徒たちのぶんと一緒に、運転手の神殿を作って、そこに拝みに行くようになりました。
なんだかそうしないと、気が済まなかったのです。
自分たちも悪かったのではないかと、ずっと思っていたので、運転手だけが罪を被って死ななければならなかったことで、死んだ運転手が「自分だけが悪いんじゃない」と、怒り心頭になって、生きている自分たちを呪っているんじゃないかと、祟られるんじゃないかと思うと、冷静ではいられなかったのです。
そして、そのことが、被害者遺族の耳に入りました。
被害者遺族は、「話が違う」と言って、怒り出しました。
「あの時許してあげたのは、運転手だけが悪いと思ったからであって、君たちもそれを認めたではないか。どうして悪人を拝むんだ。もしかして、本当は、何も悪いことをしていないと思っているんじゃありませんか」と言って、生徒たちを責めました。
それでも生徒たちが、拝むことをやめなかったので、被害者遺族は、「犯人である運転手の過去の交通違反歴記念館」を設立して、運転手の悪事を強調しました。
すると、生徒たちは、「運転手さんをバカにするなんて、ひどい!」「おまえたちのしていることはいじめだ!偏見がある!」と言って、反発しました。
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さて、この例え話には、中国との関係を、わざと意図的に、象徴して語ったことがらが、2つ入っています。
中国人は、儒教の徒ですので、「国民が悪い考えを持っているときには、それは指導者が、悪い情報を与えているからなのであって、指導者に責任がある」という考え方をします。
これを、「高校生」というふうに、例えてみたのです。
中国人の目からすると、そういうふうに見えたので、「日本の人民」を許すことができたのです。
「おまえらだって、当然悪いだろ」というふうにならなかったのには、そういう、彼らの基本的な考え方が、根底にあるのです。
そして、「自分たちに代わって、罪を被った運転手がかわいそうだ=本当は、彼だけが悪いわけじゃないのに=彼は、怒っているんじゃないだろうか=そのうちに、怒って自分たちに祟るんじゃないだろうか」という考え方は、日本に特有のものであって、これは古来からある怨霊信仰です。
この感覚は、外国人には通じません。
「誰かが、気の毒な死に方をした=死んだだれだれさんがかわいそうだ=あの人に敬意を払って、手厚く祀ってあげないと、怒り狂って、祟るんじゃないか」というのが、怨霊信仰です。
ですので、はっきり言いますと、東条その他の戦犯は、今や、この、怨霊信仰の対象者になったということなのです。
ですから、日本人のやっていることは、平安時代と同じであると。もっと前から、そういうものはありますが。
私が思うのは、相手が日本人ではない場合には、そもそもこれは通用しないから、わかってもらうことはできないということと、こちらが加害者の場合には、被害者の意向を尊重しなければならないということです。
そして、外国との約束ごとは、必ず守らねばならない、一度決めたことは、筋を通さねばならないということです。日本人は、こういうことが、一番苦手なのです。
「でも、あの人があまりにも気の毒だから、私たちはこうするよりほかにないじゃないか、きっと外国にもわかってもらえるだろう」というふうに思って、ずるずるずると、「既成事実」でなんとかしようとしてしまう、それが日本人です。
われわれは、「西洋の文化にさらされて変わった」のではなくて、飛鳥時代とか平安時代と、まったく同じ原理で、振る舞っているのです。