2014年3月19日水曜日

Twitterでのコラムより-「花は咲く」考-

 東日本大震災から3年が過ぎたが、その前日に私はMichikoさんとこんなやり取りをさせていただいた。
 むろんこのやり取りは引用の許可をいただいた。この場で感謝いたします。

小野 哲 ‏@pbe_ajax 非公開ツイート 3月10日

『花は咲く』だけでは東日本大震災は分からない。脱原発、脱効率経済に舵を切らないと意味はない。

Michiko ‏@Michiko70554148 3月10日

@pbe_ajax そうなんですが、このへんが、日本人のメンタリティにおいて、「大同」できるという、ギリギリのところだというように、理解するべきなのではないかと、思いますね。 要するに、あんまり悲しすぎたり、露骨すぎたり、未来がないものは、マジョリティの同意を得られない。
ですから、「大同」できるものを、探していったら、このへんに落ち着いたということであろうと、思います。マニアにしか受けないものを作るわけにはいかないと、そういう場合にどうなるかといったら、このようになるんだろうと、思いますね。これなら、どんな日本人も、頷くと。
よその国でも、そうなのかといったら、そうでもないと思います。 日本人から見たら、悲しすぎたり、露骨すぎるとか、暗すぎるというふうに思えるようなものでも、よその国では、それで大同できてしまう、という場合もあるわけで、ですから、これなんかは、日本人のメンタリティを考えるには、よいサンプルではないかと、思います。 どうして「松は残った」ではダメなのか。それは、ちょっと「悲しい」が多めだと、思われたからであってさらに、「希望が足りない」と思われたのでしょう。 ですから、ここに落ち着いたということには、すごく意味があると。
良くも悪くも、こういうものなら、誰でも支持するというのが、日本人のマスなのであって、このバランスというのは、非常に繊細なものであって、「悲しい」と「希望」のバランスが、ちょっとでも崩れればもう、支持されなくなる。 ですから、そこを見つけていくというのが、ヒット商品を作ったり、選挙スローガンを考える人の仕事であって、バランスなわけです。日本人がどういうものかということを、よく理解している人ほど、ぴったりしたものが作れると、良い悪いは別としてです。日本人がどういうものかそれは、日本人でない人の目を通して見たという場合に、最もはっきり見える、その作業は、日本人でない人の目を借りて、日本人が見たという場合にも、見えてくるのであって、聖徳太子が「和」を発見したのも、和ではない目で眺めてみたからであって、まあ、私はそう考えています。

 なるほど、そうなのだと思う。
 ここにいい意味でも悪い意味でも日本人のメンタリティが出ているのかもしれない。東日本大震災は残念だで終わらせてはいけない。問題は復興がなぜ進まないのかだ。それが単に物資不足なのか、政治の対応不足なのか、様々な意味で厳しく検証し突っ込まないと意味はない。そこに私は日本人の複雑なものを見る。
 私は日本人のメンタリティとは鎖国のメンタリティでもあり奴隷のメンタリティでもあり豆腐のメンタリティでもあると考えている。つまり弱いのだ。外の空気を全く知らないから、現実も知らない。だから村野瀬玲奈さんにこうも論破されてぐうの音も出ない。
 その花を咲かせると言ってもきれいごとではない。ストライガ属という紫色の花があるが、アフリカ、アジア、オーストラリアの一部で自生しているハマウツボ科の寄生植物でいくつかの種はアフリカのサバンナ地域の農業に甚大な被害を及ぼし、穀物栽培にとって甚大な被害を及ぼす有害植物である。それもきれいと言えるのだろうか。
 言葉に踊らされるのではいけない。そこにある真実と向き合う勇気が必要なのである。