2013年10月7日月曜日

日本人とは(パブロン中毒)

 今回、パブロン中毒さんから鋭い指摘のコメントが参りました。
 日本人とは何かを洞察したものです。この指摘には私もうなりました。みなさんの忌憚無き意見を伺いたいと思います。コメントに感謝申し上げます。


 さて少し、本当に少しでいい加減にですが、「日本人とは」について、語ってみたいと思います。

 日本人とはなんなのか、どんな存在なのか、それは日本国内で、同胞とばかり接触している間は、ほとんど考える必要がありません。
 ですが、日本人とは、ほかの国や民族とは違う特性があるのかどうか、それについては、「自分たちが意識するかしないかに関わらず」、成立しているわけです。
 「オレたちって、たぶんこういう感じ」という認識をしていなくても、「あいつらはこういう感じ」という認識が、「日本の外」では、「成立している」のであるという、そういうことになります。
 それは、そうなのです。

 さて、オレたちはどういう感じなのかというのことは、「ほかとの比較」によって、定義されます。
 「ほか」との比較で「まじめ」であれば、「日本人はだいたいまじめ」というふうになるわけです。
 「ほか」が、日本人よりもそんなにまじめでないから、日本人がまじめだといえると、いうわけです。
 私が思う「オレたちの感じ」とは、やはり、「まじめである」「ウブである」「控え目である」とか、まあそういう感じですね。
 まじめについてはまあ、あまり論じる必要もないかと思います。
 脅されなくても、自主的によく働く。
 ウブである、控え目である、従順である、これは反抗的でないということです。
 英語でいえばobedientであるということで、これらの特徴は実はそのまま、ハワイにいた日本人や日系移民たちが、戦時中に隔離されなかったことの理由です。
 いくらサトウキビの耕作をさせなければならなかったとはいえ、もしも彼らが「怠け者」で「ずる賢く」て「反抗的」であったなら、隔離されなかったはずがありません。

 さてこれらの「特性」は、日本人が「辺境の民」であるということと、密接に関係していまして私はこれについては、主に内田樹の著作などを参考にして、考察をしております。
 辺境の民とは、そのままの意味であって、自分たちが真ん中にいないという意味であって、あらゆる意味でいつもはじっこで生きる宿命にあると、それに応じた特性が発達していったと、いうことのようです。
 「ウブである」これについては、「辺境の民」であるということと、直接的に関係がありまして、すなわち「田舎者で世間知らずである=国際マナーに疎い」ということでして、これについては、アジアにおいては、中原に成立している国家というのが、常に「真ん中」なわけですから、日本というのはそこから離れた場所の、はじっこのほうに、なんとなくぼんやり浮いていると。
 「文化の真ん中から遠い」ものだから、洗練されていないのは、当然のことであると。
 そしてこの「特徴」を、うまく逆手にとって利用してきたのであるというふうに、内田は言っています。
 「世間知らずで洗練されていない」という「永遠の特徴」の「最初」は、たぶん、聖徳太子が煬帝に失礼千万な手紙を送ったときからであろうと、彼は推測しています。
 あの失礼な手紙は、わざと、計算ずくで「失礼」に書かれたものであると、そして、「田舎者だから、マナーを知りませんので」ということで「許される」というふうに、予測していたのであると、そういうふうに言っていますね。
 そして実際に、お叱りは受けたのですけれども、怒り狂った煬帝が膺懲に押しかけるということには、ぜんぜんなりませんでした。
 逆に、「とんでもない田舎者を教育するために、使節をよこした」というようなことに、なったようですね。
 これんついては小野妹子が、ずいぶんと上手い芝居をしたのではないかと、私は思っています。「悪気がない」「ただマナーを知らない」「田舎者である」ということを強調するために、最大限の演技をしたことであろうと、思いますね。
 当時の日本人が「未開の土人」「超のつく田舎者」であるということで、そういうふうに思わせることで、メリットがあったからこそ、そういうふうにしたわけでしょう。それについては、各位ご想像のつくところと思います。「未開の土人」でなかったとしたら、「けっこう使えるヤツ」というふうに思われたら、どういうことになったのだろうかという逆算をしてみれば、いいわけですね。
 聖徳太子のころにはすでに「ウブを利用して上手く立ち回る」という「技」が成立していたわけですから、「聖徳太子後」も、それが利用されなかったわけはありませんで、むしろ磨かれてきたに違いありません。
 実を言えば私もこれは、困ったときには、しばしばと用います。
 「私は英語のネイティブではないのでわかりません」
 「私は国際経験がないのでわかりませんでした。もしも失礼をしてしまったならごめんなさい」
 こういうふうに使いますね。
 だからといって、私以外の日本人もウブであると言えるのか。
 ということを考えてみたいと思いますが、超がつくほど優秀で抜きんでた日本人で、海外で活躍している人は、いろいろいます。
 イチロー、松井、坂本龍一、小沢征爾、さて彼らは、「ウブ」といってもいいのでしょうか。
 いいと思います。
 彼らに共通するのは、国内はともかく海外においては、「自分を手本にしろ」「自分のすることを、今後の世界のスタンダードとして取り入れろ」というふうな人物には、絶対にならないということです。
 自分のすることを他人(非日本人)のスタンダードとして強要したり、教え授けるということができない、そのこと自体がすでに「ウブ」という、日本人の特徴に当てはまっているわけです。
 これが日本人でなければ、そしてこれくらいに抜きんでた人であれば、そういうふうにしている可能性は多いにあります。
 その場合には、「オレが法律だ」「オレの真似をしろ」「これまでのやり方を、オレ流のやり方に変えろ」こういうふうにですね、主張している可能性があると、いうわけです。
 ですが、日本人である限り、そういうふうにはならない。
 彼らはどんなに優秀な成績を収めても、いつまでも「国際社会に参加させてもらっている末席の人間」という立場を、守り続けるわけです。
 「ホスト的立場」には、ならないのです。
 だから、今でも日本人は「世間知らずの田舎者」のままなのであって、「ウブ」だということで、いいのだと思います。

 まあわれわれの「感じ」はそういうこととして、ここで中国人の「感じ」について、語ってみたいと思います。
 私がネットで交流をした「ネイティブの中国人」という人は、これまでにたったの3人です。
 そのうちの2人の方は、ほとんど「あいさつ程度」にしか、交流をしたとはいえないと思います。
 また、これらの「ネイティブ中国人」以外の、英語をネイティブとして自由自在に操る「華僑」や「海外経験の長い中国人」の方々には、たくさん巡り合っています。
 それで思ったことは、最初に出会った、ネイティブ中国人の方の、驚くべき「中華度の高さ」でした。
 この方は、中国国内で、中国語を母国語として育ち、たぶん最近になって英語を使用する場所へ来られたという感じでしたが、ですので英語が自由自在に使えるとか、ネイティブ並であるとかいうことでは、ありません。
 ご自身でも、「英語のネイティブではない。だからときどき、言いたいことをどういうふうに言ったらいいのかわからなくなる」というふうに、おっしゃっていました。
 ですから、西洋風の作法や風習に、それほど馴染んでいるというわけではないはずです。
 そういう方なのですが、つまりは「条件的には、世間知らずの日本人とあんまり変わらない」わけですが、条件が変わらなくても、「態度」はぜんぜん違います。
 彼は、どんな場所に、どんなメンバーと一緒にいても、「自分が世界の中心である」「自分がスタンダードである」ということについて、一寸の疑いもないのです。
 だからきょろきょろと、「これでいいのかな」「空気読めてるかな」「浮いてないかな」というふうに、「まるで日本人みたいなこと」は、絶対になさいません。
 もう、ぜんぜん、そういうのとは、違うのです。
 「自分が中心」「自分のすることがスタンダード」であることに疑いがないから、ものすごくどっしりしているわけです。
 いちいち動揺したり、他人に振り回されたりはしません。
 そしてまるで、中原の国家が常にそうであったのと同じように、自分に対して誠意を示してくる外国人に対しては、「相手が差し出したものよりも、たくさんの褒美を与えようとする」わけです。
 さらに、「誠意を示してきた相手」が未熟であったり、自分の要望を満たせないという場合には、相手のレベルを引き上げようとして、躾けようとしますが、それもまた「中華な作法」に則っているのであって、「相手が言い訳をしたり、反抗的な間」は、「罰」を与えますが、「正しいやり方がわかりません。教えてください」というふうにさえなれば、それまでの間違いについては、すべて許し、「おまえは本当はそれほど悪くはない」「いいところもある」というふうに、なるわけです。
 それが「中華である」ということなんだなあと、もうこれは、どう逆立ちしても、日本人が身に着けることはできないシロモノであるなあと、私は思ったわけでした。

 昔の日本人は、「中華な人たち」が、「そういう人たち」であるということをよく知っていて、そして彼らと上手く付き合う方法というものを、心得ていたわけです。
 田中角栄なんかも、それが上手かったはずですね。
 そのあと40年くらいたったら、出来る人がいなくなってしまいました。
 「いなくなった」のか、「したくないからしなくなった」のかは、厳密には、定義できないのですが。

 「中華」というこの絶対の、強烈な概念は、現代に生きる中国人によって、体現され続けているわけでして、これからもなくなることは、当分ないでしょう。
 これは特に、昔の官僚階級に当たるような、知識人層になればなるほど「濃く」なるのであって、その「濃さ」の頂点が、党の幹部ということになるわけです。
 ですので「下」の農民層に行けば行くほど「薄くなる」ということが、言えるでしょう。
 ですが、「下」であっても、彼らが「非中華な民」つまり「中国人でない人」と接する場合には、やはり「中華」が発揮されるのではないかと、私は思っています。
 中国人というのは、今でも儒教の行動規範を旨とし、自らを「あらゆる意味で真ん中にいる尊い民」であると感じ、そして「尊くあり続ける」ために「自らを律しなければならない」と思って、生きているわけです。
 「バカなこと」をしてしまえば、「尊くなければならない自らが、尊くなくなってしまう」わけなので、「中華であり続ける」ためには、規範を守らねばならないわけです。
 約束を守るとか、嘘をつかないとか、ヘラヘラしないとか、媚びないとか、威厳を保つとか、外国人が誠意を示してきたら、せいいっぱいもてなして、倍にして返さないといけないとか、いろいろなことを、「中華な民であり続ける」ために、やっているわけですね。
 この「サイクル」が、彼らの行動を形作っています。
 そしてそれが中国政府のすることなすことに反映しているわけでして、私はそれがわかってからは、中国政府関係者の言うことなすことが、すべて「規範どおり」であるということが、「見える」ようになりました。
 「どうしてそういうことをしたのか」「どうしてそういうことを言っているのか」ということが、おおむねわかるようになって、「ああ、それはそうだろうなあ」というふうに、わかるようになったのです。「良し悪し」ではなくて、「そうなるはずだ」ということが、見えるわけです。

 中国人がどういう人たちであるかを考えることによって、日本人がどういうふうに「違うか」ということがよく見えるのであって、まあですね、はっきりいえば「日本人は中国人とはそもそもぜんぜん違う」ということです。
 ですが、長いこと付き合って、文字や宗教を分けてもらったりして、文化は深く共有していますし、もちろん血でも深くつながっているでしょう。
 重要なことは、見た目は同じだけれども、「その人間が中国人であるという認識を持っているか」「日本人であるという認識を持っているか」によって、中味がぜんぜん違うという、そういう事実ですね。
 そしてまあ、「日本人」というものは、「真ん中じゃないとこで生きるための知恵を持っている民」であるということで、「真ん中」を「中国以外=アメリカ」というふうに認識してからも、それはそれで「いろいろごまかしながら上手くやっていく」という能力が、あったわけです。
 ですがまあ、「中国が真ん中であったころ」とは、根本的な違いが、「アメリカが真ん中であると思っているとき」には、あるわけですね。
 それは、「真ん中の人」が、「どういう人であるか」という「違い」です。
 中華という概念は、基本的には「常に受け身」であるということです。
 もともとすごくて偉くてリッパだから、何もしなくても「周囲の国」から、挨拶に来るのが当然であると。挨拶に来たら、褒めてやって、何倍もご褒美をあげると。
 それらの子分の態度が悪くなったら、お仕置きをしなければなりません。
 それらの態度が悪くない間は、それらの子分の安全保障をしてやらねばなりません。
 子分が軍事攻撃をされたときには、必ず撃退してやらねばなりません。
 そういうことがなければ、子分はだいたいほったらかしにしておきます。いちいちと、子分の些細な事情に構っていられないからです。
 あとは遊牧民対策をしていればいいわけです。それらが中原に侵入してきたら追い払うと。
 それが「中華である」ということなわけです。基本的に「受け身」ですね。
 いっぽうアメリカは、それとは「かなり違う国」なわけです。
 「自分たちが真ん中である」という認識を持っているという点では変わりませんが、「行動規範」は、だいぶ違うはずですね。
 自分のところの財布がひもじくなれば、子分から搾り取ろうとする。こういうことが平気でできます。
 これは、中国の場合ならば、「常に道徳的にリッパでなければならない」から、「はしたないことはできない」という事情がありますので、なかなかそういうことをするわけにはいかないのです。
 「子分」から搾り取るということができる国と、できない国、そういう違いがあるのに、どうも日本人は、「真ん中の国が変わっただけ」というふうに、思っているフシがありますね。
 それが、最大の問題であると、私は思うのです。
 「自分たちが何である」かを知らず、知らないから「真ん中の人がどんな人である」かも、わからないままなのです。