2013年8月1日より、日々格闘記はGoogleという新たな世界に打って出ます。なお、熊本大震災・東日本大震災・鳥取大震災の被災者の方々にお見舞いの言葉を、亡くなられた方々には冥福を祈ります。拙ブログは社会的マイノリティとともに歩むブログです。よってレイシズム(極右・極左)及び優生学及びエコテロリズムなどの反人道的な行為や思想を許しません。
2013年10月18日金曜日
地方百貨店を考える 熊本・大洋(熊本城屋)の場合
熊本城屋の前身百貨店・株式会社大洋を今回取り上げる。
1952年6月14日 創業。
1952年10月10日 会社設立
この百貨店も以前取り上げた千葉県千葉市の田畑百貨店同様、火事に遭遇した。1973年11月29日に起きた火事で買い物客や従業員ら104人が死亡、国 内のビル火災として有数の惨事となった。今は熊本市を代表する百貨店と言えば、鶴屋百貨店(高島屋・伊勢丹系列)だが、火事の前は大洋が熊本市を代表する 百貨店で、他に5つの支店を構えていた。
また、三越とも提携していた。地域に慕われており、当時市民は市街地へ出かけることを「大洋に行く」と 言うほどであった。朝には「朝だ元気で」(八十島稔作詞・飯田信夫作曲)、夕方には「夕焼け小焼け」(中村雨紅作詞・草川信作曲)が大洋デパートから市内 一円に向けて放送され、市民に時を告げていた。
だが、火事によって会社の経営は大きな打撃を受けた。その結果会社の規模は大幅に縮小された。
閉鎖店舗
大洋ショッピングセンター健軍(現マルショクサンリブ健軍店)
水前寺(マルショクサンリブ水前寺店→2007年2月で閉鎖)
京塚店
規模縮小
大洋デパート八代店
大洋ショッピングセンター新市街店
1975年11月16日 防災設備を完備し、ロゴなどを変えてイメージを一新して本店を再オープンした。この前のコラムで用いた画像はその時のロゴマーク である。再オープンにあたり、防火設備を最優先で設置したため、売場面積を縮小、地上8階・地下1階の建物になる。三越との提携を強化してファッションに 特化した店舗作りを目指した。また、下通り側アーケード出入り口の1階には慰霊碑が設置された。また1階の下通側には九州第1号店となるマクドナルド熊本 大洋店がオープンした。火災により強度を失ったコンクリート製の店内の柱を補強する為に、店内全体の柱は太くなってしまい、買い物客に圧迫感を与えてしま うとの配慮から、柱が鏡張りとなった。再オープン初日は12万人が訪れて人だかりでごったがえしたものの、火災後のダメージは拭うことが出来ず、翌年に倒 産、廃業した。
そして1979年10月、大洋デパート跡地に、ユニード資本による百貨店とスーパーの複合商業施設として「熊本城屋」が開業し た。その後、ユニードがダイエー子会社九州ダイエーと合併したため「城屋ダイエー」と店舗名を変更するが、現在はダイエーの直営店舗「ダイエー熊本下通 店」として営業されている。
(今回の引用元はWikipedia日本語版)
なお、大洋デパートを経営していた山口一族はパチンコ屋に転身している。
百貨店は非常に難しい。非日常性をいかに打ち出すか、その一方で地域色をどこで打ち出すかによって変わってくる。高崎市にある高崎高島屋、米子市にある米 子高島屋はその難題をクリアして経営不振から脱却できた。帯広市にある藤丸という百貨店は釧路市にお買い物バスを走らせて顧客を引き込むことに成功した。
つまり、答えはその地域にある需要をいかに掘り出し、いかに対応するかにある。それを考えるがために経営者にはそれなりのボーナスが認められるが、それが出来ない経営者があまりにも多い。無能な経営者に1億円なんて、壮大な無駄遣いだと思うのは私だけだろうか。
今回取り上げるのはいつの間にかダイエー熊本下通店に業態変更した百貨店である。
今回、店舗名をタイトルに含ませているということは、熊本にももうひとつ取り上げる百貨店があるのかということになるが、実は熊本城屋は百貨店の火災事故に遭遇した大洋が前身である。そのほかにくまもと阪神の前身である岩田屋伊勢丹もある。
ダイエーになった経緯は、ダイエー系列のユニードが熊本城屋に全額出資していた他、途中からダイエーも資本参加したそうだ。1979年にオープンした城屋 だったが、1984年7月下旬、改装工事中の熊本城屋1階で塗ったばかりの塗料に溶接の火花が引火して火災が発生した。火はすぐに消し止められ、1人が軽 い一酸化炭素中毒にかかっただけで済んだ。だが城屋サイドは火災を認めなかった。これは奇しくも大洋デパートの火災の時の状況と同じだった。
こ れで西日本新聞などの批判を浴び、「悪夢ふたたび」「大洋デパートの教訓が生かされていない」などと書かれ、大洋デパート火災と関連づけて報道されたそう だ。熊本城屋は改装工事が終わるまで全館休業にして全社員を使い、熊本市中の家庭を一軒一軒訪問させ、謝罪させたそうだ。その翌年10月に店名をダイエー 城屋にしたかと思えば、2年後の4月に城屋ダイエーに変更したが、経営不振は変わらず、ダイエー本体に組み込まれ、ユニードと一緒に1994年3月にダイ エー本体に吸収されて、1995年9月に店名を「ダイエー熊本下通店」に変更したそうだ。
ダイエーの暖簾で顧客の信頼を取り戻そうという、甘い考えは百貨店経営を維持しようと西武百貨店に身売りして最後千葉パルコになった千葉市の田畑百貨店のように墓穴を掘ることに等しい。まずはあるべきは自助努力であり、他力本願の経営方針は逆に自ら破滅を招く。
この事件を雪印乳業(現雪印メグミルク)の経営陣が率先して教訓にしていれば、O-157騒動や雪印食品の詐欺をおこさずに済んでいただろう。返す返すも残念である。
後もう一つのロゴは銀丁といい、大洋系列のショッピングセンターである。