2015年4月20日月曜日

アルジャーノンに花束を:期待すべきこと、言わねばならないこと



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TBS系列による注目のドラマ新シリーズ「アルジャーノンに花束を」が10日、放送された。
「アルジャーノンに花束を」とは?
 「アルジャーノンに花束を」は昨年6月に亡くなった作家、ダニエル・キイスによる同名の小説を原案としたヒューマンドラマ。1966年に出版された本作は多くの賞を受賞。世界中でベストセラーとなり、現在まで版を重ねている。日本では早川書房から小尾芙佐の翻訳で出版され、名訳として親しまれている。
 なお原作は米国ニューヨークを舞台としていたが、今回ドラマ化されるにあたって舞台を日本に移し、独自の解釈が加えられている。脚本監修は「家なき子」「高校教師」など多くのヒットシリーズで知られる野島伸司。主題歌にはベット・ミドラーの「ローズ」(ワーナー・ミュージック・ジャパン)が起用されている。

第1話のあらすじ
 白鳥咲人(山下智久)は28歳の青年だが、知能は6歳児並み。柳川(窪田正孝)や檜山(工藤亜須加)などの「理由あり」の若者が勤務するフラワーセンター「ドリームフラワーサービス」で働く毎日を送っていた。
 同じ頃、遥香が勤める「脳生理科学研究センター」では、実験室リーダーの蜂須賀(石丸幹二)による脳機能を高める研究が進んでおり、すでに「アルジャーノン」と名づけられたハツカネズミを使った動物実験が成功する段階にまで至っていた。
 ところがそんな中、ネズミのアルジャーノンが檻から逃げ出してしまう。蜂須賀に心酔していた遥香(栗山千明)は「冒険をしているのかもしれません、人間と同じように…」とつぶやく。
 一方、フラワーセンターの同僚に連れられ渋谷の路上へナンパに向かった咲人は、ガラの悪い男に殴られてしまう。そんな咲人が目にしたのは、自分の下へ近寄ってくる一匹の白いネズミだった。
 その後、咲人は自室でそのネズミと再会。ネズミは文字の書かれたカードをたどり、「アルジャーノン」と名乗る。一方、蜂須賀のチームでは、遥香がアルジャー ノンを逃がしたのは自分だと告白する。遥香はGPSの電波を頼りにフラワーセンターへ向かい、アルジャーノンを抱えた咲人と出会うのだった。

見どころ
 白鳥咲人を演じる山下智久だけでなく、「ドリームフラワーサービス」の同僚役の好演にも話題が集まっている。
 母親をかばって父を刺した過去を持つ朴訥な檜山を演じるのは「ルーズヴェルト・ゲーム」で野球部エースの役を好演した工藤亜須加。父親はあの福岡ソフトバンクホークス監督・工藤公康だ。
 また、ネット上では主演の山下智久と肩を並べるほどの人気を博しているのが「Nのために」「花子とアン」などで注目された窪田正孝。ゲームでいかさまをしたり株のトレードに励むなど、切れ者の柳川を演じる。
 Twitter等のSNSでは、早くも番組に対する感想が多数寄せられている。

 今期ドラマの中で注目度ナンバー1と言っても過言ではない「アルジャーノンに花束を」、第2話は17日よる10時放送開始の予定である。

 この作品について私は単に視聴率欲しさでドラマ化するなら反対する。
 ただ、このことがきっかけになって、マイノリティが生活者として、共存できる社会へと転換することを強く望んでいる。だが、野島にはそういう能力ははっきり期待しない方がいい。今までの前例があるからだ、「家なき子」しかり、「聖者の行進」しかり、「人間・失格」しかり。去年の「明日、ママがいない」事件は記憶に新しい。単なる煽り屋にすぎないのだ。
 ダニエル・キイスさんはこの男にドラマ化されてさぞかし悔しがっているに違いない。

 それでも、このドラマをきっかけにして、今までの我々のマイノリティへの視線のお粗末さを正さねばならないと思う。不完全極まりない似非ヒューマン漫画や昼ドラ臭がぷんぷん漂う某少年誌のようなひどい世界に我々はNOをつきつけねばならないと思う。
 我々はテレビの世界ではなく、現実を見に行かねばならないということを私は何度も指摘してきた。障がい者に強さを求めるやり方ではなく、健常者が寄り添うよう努力することが大切だ。その健常者もいつかは障がい者になるかもしれないのだ。
 今の時代は効率一辺倒だった。個々人の顔や事情なんぞそっちのけの世界だった。そんな世界でいいのだろうか。私は、間違っていると何度も繰り返しておきたい。山下は「有名な原作で難しい役。プレッシャーもあるけど、ゆえにやりがいもある。人の優しさ、純粋さに涙し、心震えた。心が洗われるような、きれいな話だと思った」と語り、知能の向上、そして退化の過程で、演技に微妙な変化が求められる役づくりのため、ハンディキャップのある人たちの施設を訪れ、一緒に1日を過ごしたそうだ。
 こういうことをどんどん積み重ねないといけない。彼の言うように 、「正解はない。見た目より中身、心の動きを重視したい」ということだ。

 ボランティアという言葉が聞こえているが、実際実行に移しているかというと、移していない人がほとんどではないか。
 新自由主義経済によってズタズタにされたギリシアでは、市民が主役になって歪んだ政治に歯止めをかけた。それも、草の根のボランティアの考える力によってだ。ギリシアでもできることがなぜ日本にできないのだろうか。
 奴隷になるのではなく、自分で苦しくても前へ進まねば意味は無い。