2013年10月22日火曜日

地方百貨店を考える 横浜・野沢屋の場合




 この大丸・松坂屋はドライな手法で最近では高利益を上げている。
 だが、やりすぎではないか。横浜松坂屋を取り上げる。

横浜松坂屋
 1827年 創業者・茂木 惣兵衛(1827年- 1894年)が上野国(群馬県)高崎市の質商「大黒屋」茂木惣七の長男として生まれる。
 1837年 10歳で新田郡太田の太物商今井仙七の家に奉公し、才能を認められ支配人に抜擢される。26歳には桐生の絹物商新井長兵衛の養嗣子となった。その後開港間もない横浜における野沢屋庄三郎率いる野沢屋と協力し、生糸商人として頭角をあらわす。
 1860年 養子として、横浜商人石川屋平右衛門の石川屋を相続する。
 1861年 9月の野沢屋庄三郎の死をきっかけとし、一年ほどして野沢屋の暖簾を譲り受け石川屋を野沢屋と改称し、野沢屋惣兵衛として独立した。横浜で惣兵衛が存命中に取り扱った生糸量は、生糸売込商人中ほぼ第一位であった。
 1864年 惣兵衛が横浜市中区弁天通に「野澤屋呉服店」を創業。
 1869年 横浜為替会社の頭取に就任。
 1874年 第二国立銀行や横浜取引所の副頭取に就任。
 1881年 第七十四銀行の頭取になった。
 1890年 横浜生糸貿易商組合長に就任。
 1894年 8月、66才で没。
 1910年 本町から伊勢佐木町に移転、デパートメントストアとして支店を設立。
 1920年 経済恐慌によって経営破たんするも、絹物輸出商の亀井信次郎と、茂木家の縁者であった名古屋の瀧家の瀧定助(正太郎)により、野沢屋呉服店は独立。
 1921年 「株式会社野澤屋呉服店」となった。
 1968年 松坂屋と共同配送を開始。商品券の交換など、元来松坂屋とは友好関係を築いていた。
 1971年 秋ごろから東洋郵船社長で乗っ取り屋としても知られた横井英樹が野沢屋株を買収。経営権を暗に要求。
 1974年 松坂屋が筆頭株主になり、「ノザワ松坂屋」と改称。松坂屋グループ入りを果たす。
 1977年 松屋横浜店の撤退に伴い、松屋の土地建物を買収して西館として運営し、野澤屋以来の店舗(本館)との間に連絡橋を架設。これを機に社名及び店名を「株式会社横浜松坂屋」とする。
 2003年 松坂屋の完全子会社となった。
 2004年 12月、松坂屋の本館建物が市歴史的建造物に指定。エスカレーターの装飾やエレベーターのアナログ時計式階数表示機、食堂の窓などが昔のまま 残され、横浜に唯一現存した戦前に建設されたデパート建築であったものの、建物の老朽化が著しくなったのに加え、売り上げの減少が続いていたことから、 2008年10月26日をもって閉店(百貨店事業の終了)、解体(ただし、解体には圧倒的多数の市民の反対があったことをここに明記する)。跡地には、新 たな商業施設カトレヤプラザ伊勢佐木として、2012年2月8日開業。

 企業は常に地域と向き合っていかねばならない宿命である。
 それを踏みにじり目先の利益に走れば、その場は儲かってもその後は大きなツケになって襲い掛かる。丸井今井を見れば分かるではないか。我々は新たな時代の 価値観を模索していかねばならないが、それには応分負担の原則が徹底されねばならないのである。当然だが、消費税ではなく法人税・所得税・トービン税が優 先されねばならないのだ。