2013年11月23日土曜日

昔大丸は義商なり


「先義而後利者栄」 大丸 下村彦右衛門

正直・律義で慈愛深く

「人は正直で慈愛に富むのが第一。衣服や食事のおごりもいけないが、心のおごりが最もいけない。いかに才知に優れていても不義理な人間は役に立たない。まして主人たるものは、正直・律義で慈愛深くなければ多くの人の上には立てない。」

大丸の業祖、下村彦右衛門正啓の遺訓である。併せて「世間では目先のことだけを考えて商いをする者があるが、そういうやり方は嫌いである」とも言い残している。

享保二年(1717年)、29歳で京都・伏見に大丸の前身である呉服屋「大文字屋」を開店した彦右衛門は、その後順調に商売を広げていったが、創業20年の節目を目前にした頃、筍子(じゅんし)の言葉を借りて自らこう記したという。

「先義而後利者栄(義を先にして利を後にする者は栄える)」

これを掛け軸にし、京都・大阪・名古屋の全店で座右の銘とするように命じた。事実、彦右衛門はかねてから貧しい者に施しをいとわない「義の人」であった。庶民の絶大な人気を得たのもうなずける。

この銘が飾り物でなかったことを証明したのが創業から120年後、天保8年(1837年)の「大塩平八郎の乱」である。

「大丸は義商なり」

数年にわたり襲った「天保の大飢饉」により、餓死者が多数出るなど世の中には暗雲がたれこめていた。「天下の台所」と呼ばれていた大阪でも状況は同じである。

大阪町奉行の子に生まれた大塩平八郎は、与力などを歴任した後、私塾「洗心洞」を開き、多くの門弟に「知行合一(ちこうごういつ)」を唱える陽明学を教えていた。世の惨状を見かねた大塩は、救済策を奉行所に建言するが、一向に相手にされない。そこで、ついには自宅に火を放ち、門下生らとともに決起することとなった。

兵火に焼かれた家は約2万戸。大阪市中の4分の1にも上り、死傷者は二万数千人と記録されている。豪商達も多数襲われたが、そのなかで襲撃を免れた店があった。「大丸」である。

大丸の前にきたとき、大塩は「大丸は義商なり。犯すなかれ」と叫び、民衆を抑えたと伝えられている。

「先義後利」-。彦右衛門が定めた理念を、後に続く人々が愚直なまでに遵守してきたことが「奇跡」を呼び起こした。この言葉は、制定以来280年を経たいまも、大丸の社是として大切に受け継がれている。

下村彦右衛門(1688~1748)
http://goshom.com/2011/03/post_1.html

 だが、今の大丸経営陣はこの精神を忘れているとしか思えない。
 その理由は地域密着とは言い難い二つの店舗の閉鎖だ。山形松坂屋、横浜松坂屋の閉鎖だ。横浜松坂屋の前身である野澤屋の建物は横浜市民の象徴のようなものだった。1921年に建設された本館の建物は当時世界的に流行したアールデコと呼ばれる幾何学模様のデコラティヴなテラコッタ装飾が施された外観を持つ鈴木禎次が晩年に設計した名建築で、エスカレーターの装飾やエレベーターのアナログ時計式階数表示機、食堂の窓などが昔のまま残され、横浜に唯一現存した戦前に建設されたデパート建築で、「日本近代建築総覧」に記載されて近代建築としての歴史的・文化的遺産としての価値が評価されており、2004年には横浜市の「歴史を生かしたまちづくり要綱」に基づく横浜歴史的建造物にも認定されていた。
 そのため閉店が決まった際には横浜市は同建物の外観を保存し跡地を再開発するように申し入れ、日本建築学会なども解体・撤去の方針を見直して保存するよう求め、市民団体等が8月9日にシンポジウム「どうなる松坂屋どうする伊勢佐木」開催するなどして解体反対の動きがあった。だが大丸(J.フロントリテイリング)は「既存の施設のままの営業継続では老朽化に伴う耐震補強などで約50-60億円が必要になる」として建替えを画策、リーマンショックに伴う個人消費の落ち込みによる業績が悪化を口実に解体を強行した。
 このやり方は絶対に許されるものではない。山形松坂屋の場合も最初から閉店という結論ありきだから救いようがない。その批判に長崎大丸(旧岡政)ではホテル併設の商業施設でごまかしたが、郊外に移転して出直す選択肢もあったはずだ。大丸の発想は硬直しているとしか思えない。さらに突っ込んで言えば、パルコ買収にしても完全に失敗しているとしか言いようがない。イオンの存在である。
 その代償はイオンにピーコックストアの売却という大きな付けを払う羽目になった。それでもイオンはパルコから手を引かないのだから、大丸は焦っているとしか思えない。