今回は二つ一度に取り上げる。
と言うのはもともと信州ジャスコ(現イオンリテール)は松本市にあったはやしや、上田市にあったほていや百貨店が前身だったからだ。
地方百貨店を考える~上田市の場合~(小野哲)
テーマ:地方百貨店シリーズ
2010-05-23 07:30:57
今回はイオンの子会社になった地方百貨店・ほていやを取り上げる。
今回もWikipedia日本語版より採用する。1959年から1977年まで長野県上田市に存在していた百貨店である。今はイオン子会社で長野県の地域法人であるマックスバリュ長野になっている。
このほていやのルーツは古く、江戸時代創業の呉服屋である布屋忠兵衛を始まりとして、北国街道沿いの柳町で営業し続け明治時代には「布忠呉服店」と改称した。
1929年に現在の国道141号部分である通称百間道路が開通すると「布袋屋呉服店」と改称し建物の半分を洋館風に改築して営業した。1940年に株式会社・ほていや呉服店と改称すると海野町に2階建て鉄筋コンクリート作りの店舗を建てて移転。
戦後百貨店の体裁を整え1959年には百貨店法(現在は廃止、代わりに大規模小売店舗法が置かれている)に基づき認可され「株式会社・ほていや百貨店」としてスタートする。
1961年に7階建ての店舗を完成させて本格的な百貨店営業を開始。当時からエレベーター・エスカレーターを設置したが上田市内では珍しかったためたちま
ち人気スポットと化していたという。また、6階テラス(後に屋上)に設置されていた遊園地は子供に人気があり連日にぎわっていたという。
1968年に一度目の増築工事で松尾町側にも入り口が設置され同時に5階に展望大食堂が設置され客足が延び、1972年には二度目の増築工事で階段が二つ
に増設されていたが、1974年に西友(のちに西武上田店を経てリヴィン上田店、2009年3月閉店)とユニー(1988年に閉店。その後、跡地の隣に池
波正太郎真田太平記館が建設された)が進出してから客足が低下し、1977年にイトーヨーカドーが長野県第一号店舗として上田店を上田駅前の日本通運上田
支店跡にオープンさせると単独での営業すらもままならなくなった。
そこで1977年にジャスコ(現:イオン)と提携して生き残りを図ることとなった。これにより独立での営業はこの年をもって終了、ほていやは「ジャスコほていや」となった。提携後会社自体は傘下の独立企業として存続していた。
しかし1982年に呉服店時代から42年間営業していた海野町から常田の昭栄上田工場跡に移転するのを機に信州ジャスコ(ジャスコ子会社、現在はイオンリ
テールが事業を受け持つ)へ吸収合併される事となった。結果ほていや百貨店は1983年の移転後名前のみが残ることとなる。
信州ジャスコは移転後旧ほていや百貨店店舗を「ジャスコほていや中央店」としてリニューアルオープンしたが最上階以上(後に4階以上)が空きフロアとなったため、その場所に置かれていた遊園地・展望大食堂は営業を終了した。
そしてほていや百貨店は1994年にジャスコ上田店と改称し、またほていやジャスコ中央店は会社のリストラ策で1999年に閉店したのち、解体され上田市
から消滅した。なお、移転後のほていや百貨店はイオン上田ショッピングセンター内のジャスコ上田店として営業している。移転前のほていや百貨店跡は遊戯設
備や催しものの会場や駐車場となった後、穴吹工務店によって買取りマンションが建設された。
Wikipedia日本語版より引用
生き残るためとはいえ、手段を選ばないのがジャスコのやり口である。
モータリゼーション時代に対応するため、郊外に大型店を移転・開店させる。そうなると今まであった人の流れは一気に変わってしまう。既存の店舗は混乱し、困惑する。なにもない場合は容認できるが、移転した後の地域の街はどう考えるのか、そうした課題が出てくる。
私は社会主義者ではない。だが、無規則そのものの新自由主義は更に嫌いで、資本主義にルールを指し示して従わせるのが政府や地方自治体の仕事であると考えている。今後、イオンやウォルマート、セブンアンドアイ等の大型資本とどう付き合うか、私達は考え直すべきであろう。
地方百貨店を考える~松本市の場合~(小野哲)
テーマ:地方百貨店シリーズ
2010-05-25 07:03:31
今回は信州ジャスコの源流になった地方百貨店を取り上げる。
現在、信州ジャスコはイオン本体に吸収され、イオン子会社のイオンリテールが事業を引き継いでいる。なお、長野県にある一部のジャスコとマックスバリュは運営会社がマックスバリュ長野になっている。
1917年 林寅松により「はやしや呉服店」創業。
1932年 株式会社はやしや呉服店として法人設立。
1956年 長野県初の百貨店法適用による百貨店開業。
当時、はやしやはかなり進歩した企業だった。イオングループの広報雑誌によると、日本開発銀行からの融資を引き出し、大規模な増床を実現した。また、三越とも商品提携を結んでいるほどだ。
だが、新築移転に伴う過大な投資と人員増による経費がカバーできずに財務状況は悪化していた。そこで、林栄一社長との繋がりがあった岡田卓也氏(現イオン名誉会長)に八十二銀行がジャスコとはやしやの共通した取引先であるアルプスシャツを通じて経営再建を要請してきた。
ジャスコは地域との摩擦を避け、はやしやの持つ知名度と信用の大きさを生かし、商品供給能力や店舗開発技術などを供与すれば経営再建できると考えた。
1970年10月29日 ジャスコと業務提携を行い、ジャスコがはやしやの株式の過半数を買収、岡田卓也氏が代表取締役に就任。スーパーストアへと業態を転換し多店舗化に着手する。
はやしやは信州ジャスコに社名変更、1986年には名古屋証券取引所市場二部に上場した。この間、大町市のカネマン大黒園(1978年に提携)、上田市の
ほていや(1988年に合併)、小諸市の昭和堂(1979年に提携)、長野市のニシナとの合併を行った。そして、信州ジャスコは扇屋ジャスコ、北陸ジャス
コと一緒にイオン本体に吸収された。
ちなみに、はやしや跡地に入ったのは松本パルコである。
今回、このロゴマークを手にする過程をちょっと話しておこう。
私は国会図書館に行って、最初に信濃毎日新聞という、長野県を代表する新聞で検索をかけたのだが、長野丸光や丸善、ほていやのロゴマークは手に入っても肝心のはやしやのロゴマークは手に入らなかった。
そこで、松本市で発行されている新聞ならと思い、図書館司書にレファレンスで確認したら、信陽新聞(現在の中央時報)が相当した。そこでマイクロフィルムで確認したら、案の定ドンピシャである。
大きなメディアをうっかり鵜呑みにすると取り返しのつかないことになる。また、はやしやについてはあのWikipedia日本語版でも出ていなかった。井
上静氏もWikipediaへの依存の危険性を指摘している。私達は自分の足を使ってもっと物事を見つめ直すべきなのだ。
今回も過去、「新生活日記」にて書いたコラムをほぼ転載している。
地方百貨店は昭和中期の人々にとっては東京への憧れを満たす異空間、ハレの場そのものだった。だから、非日常的なものが盛り込まれていても通用していた。だが、アウトレットモールやインターネットが普及した今ではそうしたものは通用しなくなった。
どうすれば生き残るのだろうか。それが、愚直なまでに地域に密着することだ。