2013年10月22日火曜日

地方百貨店を考える 名古屋・オリエンタル中村の場合




1869年 初代・中村嘉兵衛が中村呉服店を創業。
 中村家は代々丹羽郡加納馬場村で農業を営んでいた。中村家の分家初代の中村嘉兵衛は、中市場町に進出して呉服店を開業する。初代の亡くなった後、二代目は店を広小路本町角に移した。
1877 年 中村鍵太郎が三代目を襲名。三代目中村嘉兵衛は、中村呉服店を名古屋の一流の店にのしあげた。嘉兵衛は原産地から直仕入による安売りと、贅沢品よりも 実用品という経営方針で、店の売り上げをのばしていった。買うもよし、買わざるもよし、と商品を見るだけの客も大切にするのが嘉兵衛の方針であった。
1910年 三代目が亡くなった後、中野家の養子となった三代目の弟、常助の孫、健次郎が四代目を継いだ(彼の父・中野徳三郎が後見人)。
1916年 中村呉服店を合資会社とし、四代目が初代の社長となる。
1920年 中村呉服店に小澤義男氏が入社、外商員として名古屋女学校を訪問、越原春子の帯が目にとまり、商品にならないかと借用し、 店議にかけて、商品化を推進した。

越原は1885年に岐阜県加茂郡越原村(現東白川村)に生まれ、1915年に名古屋女学校(現名古屋女子大学)を夫と共に創立し,学監兼舎となり「名古屋帯」を創案した人物で、後に衆議院議員になった女性で、1959年に74歳で亡くなった方である。

1929 年 9月、四代目中村嘉兵衛が33歳で病死、京都市の豪商松居庄七から嫁いできた妻とし子を社長に、支配人に山内寛司を選んだが、社長人事に不満を持った 四代目嘉兵衛の義理の姉で中野徳次郎の妻みね子が中村呉服店の実権を握らんと宮部鈴三郎と結び、宮部の腹心で三井鉱山に勤めていた雨宮栄を支配人として入 社させたのに対し、店員は業務経験のない2人の入店を不服として反対し十二日午前八時趣意書を社長中村とし子に提出すると共にストライキに入った。十一月 十七日、店員の要望が入れられストライキは解除、雨宮は中村呉服店を退社。
1930年 株式会社になった中村呉服店初代社長にとし子の兄松居庄七が就任。
1940年 延面積五百坪の三階建木造の新社屋が完成する。一階は実用呉服、洋品、婦人服、二階は婚礼衣裳、高級呉服、寝具を取り扱い三階は食堂と催事場であった。社員は二百名を越していた。
1945年 三月十二日の空襲により、店舗は全焼。焼け跡の中の広小路ビルで、戦地から帰った社員はアメリカを中心とする占領軍相手に人形や陶器等の土産物を売る。瓦礫の中で生活を始めた人々に鍋や釜などの日用品を売り出す。
1946年 十二月、木造二階建二百坪の新店舗が完成。
1948年 松居庄七は取締役会長となり、長男の修造が社長に就任。修造は、中村呉服店をさらに飛躍させるには、現在の土地では不適切であると考えていた。名古屋の一等地は本町広小路角より栄町へ、人の流れは栄町へ集まっていた。
1951年 木造の建物を取壊し、鉄骨三階建千坪の新社屋に改装した。
1953年 鉄筋コンクリート造り三階建百四十坪の新増築を行ない、八百坪の大店舗となる。本町角の土地を四億円で東海銀行(UFJ銀行を経て三菱東京UFJ銀行)に売却、オリエンタルビルへの入居保証金とする。
1954年 2月16日、中村呉服店が社名をオリエンタル中村百貨店に改称。正面口にはカンガルー像が設置(現在はライオン像になりカンガルー像は屋上に移転)。
1954年 5月27日に清須の平松豊助商店の未亡人さわが持つ栄町東南角の三百十五坪の土地に建設したオリエンタルビルに移転開業。日本初の屋上観覧車設置(2005年7月20日に休止、2007年には、文化庁により登録有形文化財として登録されている)。
1956年 本店増床。
1971年 11月 - 本店外壁に岡本太郎の光るレリーフ大壁画設置。同図案は、ショッピングバッグ、パッケージなどにも採用。店名の変更とともに光るレリーフ壁画は撤去された。
1974年 星ヶ丘店(名古屋市千種区)開業。
1975年 三越の傘下入り
1980年 10月1日に社名を名古屋三越百貨店に改称。
1987年 新潟三越百貨店(旧小林百貨店)、併合。
1990年 5月、金沢店が開業(三越にとっては再進出)。
1991年 名古屋三越に改称。
1999年 10月31日、金沢店閉店
2003年 9月1日、 三越の関連会社の整理統合で、関連4社(鹿児島三越(旧丸屋)、千葉三越(旧奈良屋)、札幌三越、福岡三越)とともに、株式会社三越を新設合併し、法人格消滅。
2009年 10月1日 - 株式会社名古屋三越を三越から再分割。
2010年 4月1日 - 店舗運営事業承継。